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霞み桜

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「源一郎さま、どうかもう今日のことは忘れて下さいませ。私は平気です。源一郎さまの妻になるのであれば、武家の妻として多少の修羅場を眼にすることもあるでしょう。その度に動揺していたのでは、武士の妻は務まりません」
 本当は自分は源一郎の妻になるどころか、隣に並ぶ価値もない女だ。いやというほど自覚しながらも、結衣は心にもない言葉を口に乗せた。
 こうでも言わねば、優しく正義感の強い男はいつまでも結衣を現場に連れていったことで、自分を責め続けるに相違なかった。結衣の必死の願いが伝わったのか、彼は口をつぐみ、結衣の漆黒の髪を愛おしむように撫でた。
「結衣、この桜を何と申すか存じておるか?」
 唐突に話が変わり、結衣はわずかに眼をまたたかせる。源一郎の視線の先は、和泉橋のたもとに植わった一本の桜に注がれていた。
 今、二人は小さな橋のたもとに佇んでいた。丁度、橋を渡りきって下手の武家屋敷町がひろがる方である。二人が立つ場所からは少し先に、松平越中守の屋敷が見えた。
 源一郎からさして離れてはいない場所に、その桜はあった。もうかなりの樹齢なのか、一本だけポツンと川岸に立っているその姿は孤高の老人を彷彿とさせる。
 春には薄紅色の満開の花をつけ、道ゆく人の眼を愉しませたその桜も師走の今は葉もなく、ただ尖った枝先を寒々とした真冬の蒼天に伸ばしている。
 これまで、この場所を通ることは何度もあったけれど、桜の名前なぞ考えたこともなかった。俄に興味を引かれた。
「存じませんが、何と呼ぶのでしょうか」
 結衣が桜を見つめながら問うと、源一郎が冬の陽を浴びてすっくと佇む古木を眺めつつ応えた。
「霞み桜と申すそうだ」
「霞み桜」
 結衣は言葉を憶えたての頑是なき子どものように、彼の言葉を無心に繰り返す。
「何故、そのように呼ばれるようになったのでしょうか?」
 源一郎が懐手をして首を傾げた。
「さあ。俺も詳しくは知らぬが、この桜は見る者に見たい夢を見せるという不思議な力を持つのだという言い伝えを聞いたことがある」
「見る者に見たい夢を見せる―」
 源一郎が頷いた。
「そうだ。判りやすくいえば、その者の願いを夢にして見せてくれるらしいぞ。その昔、四代将軍家綱公の御世、三十ほどの職人がここを通り掛かった。その男は惚れた女と所帯を持ったが、十年経っても子ができなかった。あちこちに願掛けしたが、一向に子はできぬ。ところがある夏の夜、仕事仲間と共に縄暖簾でしこたま飲んで、ここを通った。相当酔っていたものか、桜の樹の下で眠りこけてしまったというんだ」
 結衣は物語をせがむ子どものように期待に満ちた瞳で源一郎を見た。源一郎が笑って続ける。
「冬場であれば、そのまま凍え死んだやもしれぬが、季節が夏であったのが幸いした。男は少しく微睡んで目覚めたが、その間、何とも面妖なる夢を見たという。この桜の下で恋女房が赤児を抱いて立っている夢だ」
 結衣が思わず呟いた。
「まあ、それでは」
 源一郎が満足げに首肯した。
「そう、男の妻はほどなく懐妊した。以来、この桜は願いを夢にして見せてくれる桜、または願いを叶えてくれる桜といわれるようになったという話だ」
「ですが、何故、願いを叶えてくれる桜を霞み桜というのでしょうか?」
「大方は桜の見せる夢が現のようにはっきりしたものではなく、朧に霞んで見える、そのような意味合いではないのか? 俺も実はそこまで知っているわけではないのだ。だが、その謂われを初めて聞いたときは何故か心に感じるものがあってな」
 結衣は頷いた。霞み桜の由来を聞いたときの彼の気持ちはよく理解できたからだ。結衣も今、源一郎から初めて桜の不思議な能力(ちから)を聞かされ、昂ぶるものを感じていた。
「霞み桜、心から願えば、本当にそんな夢を見せてくれるのでしょうか」
 その呟きを源一郎が目ざとく聞きつけた。
「何だ、結衣は何か願い事があるのか?」
 彼の言葉に、結衣の顔が熟れた林檎のように染まった。その初な反応だけで、彼は結衣の願いは見抜いたようである。いや、源一郎はとうに結衣の心など承知なのだ。
―俺は何でもお見通しだぞ。
 源一郎の黒い瞳がそう告げているようで。結衣は耳朶まで紅くなった。
「もう、知りません! 源一郎さまの意地悪」
 つんとそっぽを向くと、源一郎の笑いを含んだ声音が耳朶を掠めた。
「案ずるな。俺の願いも結衣と同じだ。我ら二人ともに同じ願いを持つのだから、きっと桜もその願いを叶えてくれるだろう」
 彼の吐息が当たった箇所が妙に熱い。結衣はますます頬を火照らせて、漸く頷いた。





  決断

 源一郎が案内してくれた蕎麦屋で蕎麦をご馳走になった後、結衣はそこで彼と別れた。源一郎は町方同心として多忙を極める身だ。今日もすぐに番所に赴くことになっている。そんな彼を私用で引き止めておくのは忍びなかった。
 結衣はそのまま美濃屋に戻る気にもなれず、再び和泉橋に脚を向けた。川は滔々と流れ、小さな橋はいつも変わらずそこにある。
 結衣は源一郎から聞いた霞み桜にまつわる不思議な話を改めて思いだしながら、今は花どころか葉一枚さえ付けていない桜を見上げた。
 この桜はもう気の遠くなるような幾星霜もの間、何を考え何を見つめてきたのだろうか。きっと結衣なぞ想像も及ばないような、たくさんの人の生き様や歓び、哀しみを見てきたのだろう。
 その一人が源一郎の語っていた子を授かったという職人だった。
―ねえ、心から願えば、本当に私の想いを叶えてくれますか?
 結衣は切ない想いで桜を見つめた。
 どうか源一郎さまといつまでも一緒にいられますように。大好きな方の傍にいて、あの優しい笑顔と声に触れていられますように。
 だが、結衣の幸せな夢は唐突に破られた。
「結衣!」
 聞き馴染んだ声に、結衣は眼を開き振り向いた。
「嘉助兄さん」
 嘉助と顔を合わせるのは実によ月ぶりである。実の兄と妹のようにして育った懐かしい男に結衣は駆け寄った。
「どうしたの? あんまり突然なものだから、愕いちまったじゃないの」
 いつものように軽口めいて言ったのに、嘉助の顔は何故か強ばっている。
「兄さん?」
 嘉助は薄い唇を真一文字に引き結んでいる。どうやら、あまり虫の居所が良くないようだと、子どもの頃から嘉助をよく知る結衣は悟った。
「結衣、あの男とは、どういう関係だ?」
「え―」
 結衣は言いかけ、蒼白になった。嘉助が結衣の細い両肩を掴んだ。
「八丁堀の同心とわりない仲になるなんて、お前、一体全体何を考えてるんだ!?」
 結衣は懸命に言った。
「待って、兄さん。あの方は違うの、違うのよ」
「馬鹿野郎。俺がお前の本心を見抜けねえほどのうつけだと思ってるのか!」
 嘉助が低い声で言った。
「俺の顔を見ろ」
 それでも、結衣は顔を上げない。嘉助が再度言った。
「ちゃんと顔を上げて、俺の眼をまともに見て言え。それでもなお、お前はあの同心と何でもないと言い切れるのかッ」
 結衣はおずおずと面を上げた。
 嘉助の切れ長の瞳が結衣を射貫くように見つめていた。結衣はしばらく兄とも慕う男の眼を見つめ、口を開いた。
「あの方とは本当に何でも」
作品名:霞み桜 作家名:東 めぐみ