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霞み桜

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 泣いていた娘たちが立ち上がり、その中の続けて運ばれる二つに取り縋った。上から筵がかけられているため、亡骸の様子は判らない。だが、娘たちが取り縋っているのが間違いなく両親、越後屋夫妻の亡骸だろう。
「おとっつぁん、おっかさん」
 上の娘が漸く七つ、下の娘に至っては五歳になっていないのではないか。そんな幼い姉妹がふた親の骸に取り縋って泣きじゃくっている光景はたとえ地獄の鬼でも涙せずにはいられないほどの哀しみを誘った。
 それまで声高に高みの見物を決め込んでいた群衆の中からもすすり泣きや念仏を唱える声がひっきりなしに聞こえた。
「あ―」
 結衣の脚はその場に縫い止められたかのように動かなかった。幼い二人の娘の泣き声が心を引き裂くようだ。ふと姉の方が顔を上げた。可哀想に小さな顔は真っ赤で、泣き腫らした眼は腫れ上がっていた。
 結衣の中で、その泣きじゃくる幼い娘の顔が美濃屋の娘おゆみと重なった。
―盗みに入るということは、こういうことなのだ。
 その瞬間、結衣の心に去来した想いは何だったのか。盗みが悪いこと、罪だという意識よりは、ただ自分がこれからしようとしていることは美濃屋すべての人々を不幸にする、ただそのこと一つを確信しただけだった。
 源一郎の声がどこか遠くから響いてくるようだ。
「酷ぇ話さ。くちなわの伊助といえば、その名のとおり、一度狙った獲物は逃さねえ執念深い野郎だ。数ある盗っ人一味の中でもとりわけ残忍さで知られる質の悪ィ盗賊集団よ。越後屋もそんな一味に眼を付けられるとは気の毒なことだぜ」
「あの幼い姉妹はどうなるのですか?」
 訊かずにはいられなかった。源一郎は溜息混じりに言った。
「まあ、母親の里方は日本橋で堅い商いをやっている海産物問屋だというから、恐らくはそこに引き取られることになるだろうな。幸いなことに、祖父母はまだまだ壮健だし、跡取りの叔父夫婦には子がいねえ。まあ、大切にして貰えるんじゃねえのか」
「そうなのですね」
 結衣は小さく息を吐いた。あの幼い姉妹に身を寄せる場所があるというのがせめてもの慰めに思えた。
 源一郎の傍に岡っ引きが走ってきた。
「旦那、ひととおり現場の検分は終わりやした。亡骸はひとまず番所に運びます」
 初老の岡っ引きは俣八(またはち)といい、腕利きの親分として知られている。弱い者や女子どもには滅法優しいが、極道には鬼のように怖れられているという話だ。
 結衣も源一郎と一緒のときに何度か顔を合わせたことはあるけれど、直接言葉を交わしたことはなかった。
 眼光鋭い岡っ引きがチラリと結衣を見た。
 それだけで結衣ははや、この老練な岡っ引きに引き込みだと見破られているような気がしてしまう。思わず眼を背けると、俣八は興味もなさそうにすぐに結衣から源一郎に向き直った。
「ご苦労だった。俺はひとまず昼でも食べてから、番所に戻る」
「へえ、それじゃ、あっしは先に番所に戻ってまさ」
 俣八は一礼して駆けていった。
 越後屋を出てから結衣も源一郎も口を開かなかった。町人町を抜け和泉橋まで来た時、源一郎が立ち止まった。
「今日は本当に済まなかったな。そなたにまで辛い想いをさせた」
 江戸の町外れを流れるささやかな川を人呼んで和泉川という。本当は別の名前があるのかもしれないが、いつしか誰かがそう呼ぶようになった。
 その川に掛かる小さな橋を和泉橋と呼ぶ。町人町はその上手(かみて)にひろがる商人の町であった。裏腹にその橋を下手に渡れば、和泉橋町と呼ばれる閑静な武家屋敷町がひろがる。和泉橋のたもとには老中松平越中守の宏壮な屋敷が見え、その他にも大身の旗本や大名の上屋敷、下屋敷が居並んでいる。
 小さな橋一つがまさに活気溢れる町人の町と静かな武家屋敷町を隔てているのであった。和泉橋を渡った者は一瞬、この世でありながら別世界に行ったのかと錯覚しそうになる。それほどに町人と武士の町は様相を異にしていた。
 この界隈は昼間でも殆ど人通りはない。夜ともなれば、更に人気はなくなり、犬の子一匹さえ見かけなかった。 
 結衣は何とか微笑もうしたけれど、果たして源一郎の眼にどう映じたかは判らない。案の定、彼はすっと結衣に近づき、そっと引き寄せた。
「可哀想に、こんなに震えて。そなたが誰よりも心優しい娘だと知りながら、俺はこの世の地獄を見せてしまった」
 額に軽い口づけを落とされ、髪の毛を愛しむように撫でられる。
 刹那、結衣は叫び出しそうになった。
―違うのです、源一郎さま。私はあなたにこのように大切して頂く価値など欠片もない女なのです。
 そう、結衣が押し込みに入られた後の越後屋の無残な有様を見て動揺したのは、源一郎が考えているような理由からではない。これから己れがなさそうとしている罪がいかほどのものか、あまたの罪なき人を犠牲にすることか、それをまざまざと鼻先に突きつけられ、動揺したにすぎないのだ。
 それは罪なき人々に災いをもたらすことへの良心の呵責であり、美濃屋の人々に対する罪悪感よりは自己憐憫に近いものだったかもしれない。つまり、我が身はどこまでも自分が可愛い身勝手な人間なのだと結衣はまざまざと思い知らされたようにも思えた。
 結衣はできるだけ笑顔がいつもと変わりないものになることを願いつつ、微笑を拵えた。
「どうか、お気になさらないで下さいませ。私は本当に大丈夫ですから」
「ならば良いのだが。さりながら、もう二度と、そなたをあのような場所には連れてゆかぬ」
 源一郎はまだ気遣わしげな眼で結衣を見ながら、小さな溜息をついている。
 結衣は複雑な想いで愛しい男の整った横顔を見つめた。
―お優しい源一郎さま。あなたが私の本当の姿をお知りになったら、きっと私は嫌われてしまいますね。
 迂闊なことに、結衣はこの時初めて、源一郎と自分の立場が実は真逆であることに気付いたのだった。真逆、というよりは敵対すると言った方が良いかもしれない。
 源一郎は北町奉行所の前途有望な同心であり、結衣は盗っ人?般若の喜助?の引き込み女を務める身。追う側と追われる側、その立ち位置は端から明確だった。
 いや、そうではない。結衣は哀しい気持ちで考えた。そんな単純なことにこれまで一度として気付かなかったはずはない。ただ、見て見ないふりをしてきただけ、気付かないふりをしていただけだ。
―私ったら、馬鹿ね。源一郎さまをこんなに好きになるまで、そのことを考えてみようとしなかったなんて。
 これまで事実から眼を背け逃げ続けたことが、結衣を更なる窮地に追い込もうとしていた。
「結衣」
 間近で名を呼ばれ、結衣は現に戻った。ゆるゆると顔を上げれば、その先に源一郎の切なげな顔がある。
「頼むから、そんなに哀しそうな表情(かお)をしないでくれ」
 結衣の華奢な身体はもう一度、男の逞しい腕にすっぽりと抱き込まれた。
「俺は男として失格だな。随明寺で結衣に妻になってくれと申し出た時、惚れた女を一生守り抜くと決めたのに、もうこの体たらくだ」
 このひと言が結衣の辛うじて抑えていた感情を断ち切った。結衣は涙を滲ませ、源一郎を見上げた。
作品名:霞み桜 作家名:東 めぐみ