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霞み桜

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「俺がそなたでなければならぬと言っている。その言葉以外に一体、何が必要だというんだ? 結衣、そなたは少し自分の価値を少なく見積もりすぎている。器量、気立て、聡明さ、何を取っても結衣に勝るおなごはなかなか見つけられぬぞ。そなたには幸せになる資格がある。自分にもっと自信を持て」
「そう―ですね。源一郎さまのお言葉を結衣は信じます」
「それで良い」
 源一郎が嬉しげに笑えば、結衣も嬉しい。二人は仲睦まじげに肩を並べて歩いた。

 その月も終わり、師走になった。いよいよ今年もあとひと月で終わる。美濃屋でも何とはなしに慌ただしい雰囲気になり、気の早い女中頭のお登勢は女中たちに命じて早くも大掃除を始めている。
 もっとも美濃屋は広いから、この時期から大掃除を始めてもまだ大晦日までにはすべて終わらない年もあるのだと、これは一つ年上の朋輩から聞いた話だ。
 暦が師走に変わって五日め、結衣は再び町人町の京屋まで遣いに出された。もちろん、内儀おこうの言いつけである。今回は、おこう手製の花びら餅を届けにゆくのだ。
 今回も京屋の内儀お彩が直々に応対して、何と座敷に通されて茶菓まで頂くことになってしまった。すっかり恐縮した結衣にお彩はお礼にとおこうへの?いわ藤?のみたらし団子の他に、奉公人一同で食べるようにと同じものをもうひと箱持たせてくれた。
 ?いわ藤?は日本橋でも有名な和菓子屋だ。奉公人にはなかなか入りにくいような高級な店だから、皆、さぞ歓ぶに違いない。持ち帰った結衣としても嬉しいことだ。恐らく人の心の機微を見るのに長けたお彩はそこまで―他の奉公人たちの手前、結衣の体面まで考えて用意してくれたに違いない。
 流石は江戸随一と謳われる大店京屋の内儀だけはある細やかな心遣いに、結衣は打たれた。
 昨日、美濃屋の奉公人たちは、おこうの作った花びら餅を頂いた。花びら餅は名前のごとく春の菓子だけれど、薄紅色の花びらを象った可愛らしい饅頭を見ていると、ひと脚先に心に春が来たようで、特に女たちは舌鼓を打ちながら美味な菓子を手に思い思いに話に花を咲かせたのだった。
 京屋を出て目抜き通りを歩いていると、行き交う人たちが眼に入る。師走に入り、通行人も気忙しそうに急ぎ足で歩いているように見えるのは気のせいだろうか。
「大小掛け軸、暦、暦は要らんかねー」
 向こうから声高に呼び声を上げているのは暦売りだ。結衣はふいに手を上げて暦売りを呼び止めた。
「おじさん、一つ下さいな」
 父の喜助ほどの初老の男は背負っていた木箱を下ろし、様々な暦を見せてくれる。結衣はその中から小さな掛け軸様になった安価なものを一つ買い求めた。
 表紙をはぐってみると、一枚目は富士山の絵と昇る朝日が多色刷りで美しく描かれている。
「これが睦月」
 声に出して一枚、一枚とめくってゆく。ふと六月で手が止まった。六月、この頃にはもしかしたら、随明寺で二人して買ったあのギヤマンの風鈴を新居に飾っているだろうか。
 結衣は恍惚りと眼を閉じた。軒下に下げられた紅い風鈴が涼やかな音色を立てる。夜には勤めから帰った源一郎を出迎え、結衣の手料理を食べながら夫婦湯飲みで茶を飲む―。
 その幸せな夢は聞き憶えのある声によって中断されることになった。
「結衣、そのようなところで何をしている?」
 結衣は眼を見開き、振り返った。
「源一郎さま」
 通りの向かい側にいる源一郎に向かって微笑む。源一郎は行き交う人波を器用によけながら、身軽に通りを横切り結衣の傍に駆けてきた。
「美濃屋の内儀さんの遣いで京屋さんまで来た帰りだったんです」
 結衣は手にした暦を源一郎に見せた。
「そうしたら暦売りを見かけて、買ってしまいました」
「暦か、そうだな、もう今年もそろそろ終わるものな」
 源一郎は結衣から受け取った暦をパラパラと捲ってから返してきた。
「源一郎さま、こんなことをお願いしたら、ご不快に思われるかもしれませんが、この暦を新居に飾っても良いでしょうか」
「―」
 源一郎は最初、ポカンとしていた。結衣は慌てた。
「ごめんなさい。私ったら、幾ら何でも図々しすぎました」
 紅くなり涙ぐんだ結衣に源一郎が我に返った様子で取りなした。
「いや、そうではない。そなたが俺たちの未来についてそこまで積極的に考えてくれていると知り、その何というか嬉しくてだな」
 源一郎が耳許で囁いた。
「人眼がなければ、抱きしめてやりたいくらいだぞ」
 そのひと言に結衣の顔が真っ赤になった。源一郎の吐息が触れた耳朶が何故か熱い。その熱は結衣の身体に次第にひろがり、いつしか身体全体が微熱を帯びたように熱くなった。
 自分の変化に戸惑っていると、源一郎の方はもういつもの沈着さを取り戻している。ちょっとしたことに狼狽えたり胸時めかせているのは、自分だけなのだろうか。結衣は彼の眼に自分がいつもと変わらなく見えることを祈るしかなかった。
「これから少し寄るところがある。なに、すぐに終わる。その後で蕎麦屋にでもゆこう。美味い蕎麦を食べさせる店を最近、見つけたのだ」
「判りました」
 素直に頷き、彼に従って歩く。直に目的地に着いたらしく、源一郎の歩みが止まった。
 眼の前にひろがるのはかなりの大店らしく、構えも大きい。美濃屋ほどではないけれど、?越後屋?と紺地に白で染め抜いた暖簾が冬の風に揺れていた。だが、その様子は尋常ではなかった。越後屋に、物々しい様子で人が出たり入ったりしている。少し離れて物見高い野次馬と思しき連中が越後屋を眺めている。
 刹那、結衣の中で警鐘が鳴った。
「何が―あったのですか?」
 声が震えないようにするのに苦労した。源一郎は結衣のそんな変化を怯えと取ったらしい。結衣の肩を抱くと、優しく囁いた。
「済まん。やはり、そなたをこんな場所に連れてくるのではなかった」
「何があったというのですか!?」
 いつもの結衣らしくなく、叫ぶように問い詰めた彼女に源一郎は少し眼を瞠った。
 しまった、と、結衣は唇を噛みうつむいた。
「申し訳ありません」
 源一郎が首を振った。
「いや、押し込みの現場なんぞにいきなり連れてこられたら、若い娘なら誰でも怖がって当然だ。俺の配慮が足りなかった」
 結衣は茫然と呟いた。
「押し込み―」
「ああ、昨夜、?くちなわの伊助?一味が越後屋に押し入ってな。哀れにも一家は主人夫婦から下は幼い丁稚まで皆殺し、しかも切り刻まれての惨殺だ」
 突如として、子どもの泣き声が響き渡り、結衣は身を強ばらせた。源一郎の声が結衣の耳を打つ。
「主夫婦には三人の子どもがいた。いちばん下の跡取りはまだやっと一歳の誕生日を迎えたばかりだったそうだ。その赤児は主夫婦と共に眠っていたゆえ、共に惨殺された。上の二人の娘たちだけは母方の祖父母の許に遊びにいっていて助かった」
 二人の幼い娘たちが身を寄り添わせて泣いていた。二人ともに蹲って店の前で泣いている。その時、越後屋の中から戸板が次々に運び出されてきた。店の者すべてが殺害されたというのだから、その数が多いのも当然だ。
作品名:霞み桜 作家名:東 めぐみ