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霞み桜

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「結衣は可愛いことを申すな。そんな可愛いことを申したら、俺が祝言まで待てなくなるぞ?」
 最初は彼の言葉の意味を計りかねた結衣だったけれど、しばらくして白い頬に朱が散った。
 源一郎が優しい眼で結衣を見た。
「私の傍にいるのが嬉しいと申して泣いてくれたそなたの涙を忘れぬ、幸せにする。こんな男だが、俺についてきてくれ」
 結衣はまだ涙の滲んだ瞳で源一郎を見上げた。
「源一郎さまは先ほど私に?私のような?と言ってはならないと仰せでした。ならば、源一郎さまもご自身のことを?こんな男?だなんて言わないで下さい。源一郎さまは結衣にとっては日本一のお方です」
「こいつめ、申したな。だが、今度ばかりは結衣に一本取られた」
 源一郎の手がそっと壊れ物のように結衣の頬を包む。仰のけられた顔に彼の端正な顔がゆっくりと近づいてきて、唇が重なった。それは蝶の羽根が掠めるような軽い口づけだった。源一郎は更に結衣の額にも同じように軽く口づけてから離れた。
 上気した結衣の額に落ちた前髪に愛しげに触れ、源一郎が囁いた。
「早く祝言を挙げよう。兄上にも申し上げて、そなたを屋敷に連れてくる段取りを進める。できるだけ早く対面の場を設けるようにするよ」
 それから二人はまた並んで奥ノ院を通り、来た道を逆に金堂まで戻った。絵馬堂を過ぎれば、今度は閻魔堂が見えてくる。死者があの世に逝き、閻魔大王の裁きを受け極楽に行くか地獄に行くかを絵物語風に描いた壁が圧巻の閻魔堂だが、その絵を描いた絵師の名は伝わっていない。
 それぞれの場面が板に描かれ順番に並んでいる。一説によれば、絵師は江戸の町が大火に包まれた際、その様子をつぶさに写し取り、それを焔魔堂地獄図絵の下絵に使ったといわれる。皆が悲鳴を上げて迫りくる焔から逃げ出す中、たった一人逃げもせず紅蓮の焔を見つめ続け一心にそれを写し取っていた絵師の姿を思う時、その執念には空恐ろしいものさえ感じる。
 けれど、そのような気迫があったからこそ、閻魔堂の壁の地獄図絵は鬼気迫るほどに克明に描かれ見る者を圧倒するのだろう。地獄に堕ちて劫火に灼かれる亡者の姿は、まさに真の地獄を見た者にしか描けない臨場感があった。
 金堂の前まで戻ってくると、たくさんの露店がひしめいている。大祭は先月に終わったばかりで、そのときの賑やかさに比ぶべくもないが、それでもあまたの店が軒を連ね、参詣人が思い思いに店を覗いている。
 江戸の空は晴れ渡り、十一月にしては温かな昼下がりである。少し歩けば、うっすらと汗ばむほどの陽気だ。ふと秋の風が身の傍を駆け抜けた。この陽気では、秋風も心地良いと思える。
 ふいにシャランシャランと涼やかな音色が響き渡った。音の聞こえてくる方を見やると、透き通った硝子細工のたくさんの風鈴が一斉に鳴っている。
「この季節に風鈴とは珍しいな」
 季節感を言うなら秋に風鈴とはむしろ興ざめともいえるのかもしれないが、源一郎の性格は違う。むしろ?かえって趣がある?と、良い方に解釈してしまうような男だ。結衣は源一郎のそういうところが好きだった。
「行ってみても良いですか?」
 問えば、すぐに頷いてくれた。近づくと、涼やかな音はなお耳に心地良く聞こえる。
「秋に風鈴とはなかなか乙なもんだな」
 風鈴を商っているのは二十代後半のまだ若い男だった。源一郎が声をかけると、顔を上げる。精悍な陽に灼けた貌に人懐っこい笑みが浮かんだ。
「お武家さまはなかなか話の判るお人でやすね。大概の人間は無粋だとか言って素通りをしてしまうんですが」
「まあ、世の中、そんなもんだろうな」
 源一郎は頷き、店主に問うた。
「しかし、何故、この季節に風鈴を売るのだ?」
 店主は破顔した。
「特に理由なんぞありやせんよ。良い品だと思うから、売る。それだけです。まあ、仰せの通り、この季節に風鈴を買うような酔狂な客はなかなかいませんがね」
 源一郎が笑った。
「それでは、俺がその酔狂な客になろう。その風鈴を一つくれ」
 棒にたくさんの風鈴がかかっている。紅、紫、蒼、緑、様々な色にくっきりとした模様が規則正しく刻み込まれていた。
「へえ、ありがとうごせえやす」
 源一郎が選んだ風鈴を男が取り、紙に包んだ。源一郎は銭入れを懐にしまいながら言う。
「これはギヤマンだな」
「へえ」
「その他には、どのようなものがある? よもや風鈴だけ売っているわけではなかろう」
 更に問えば、店主が自分の横を示した。低い台には玻璃細工の湯飲みが所狭しと並んでいる。
「ホウ、湯飲みも売っているのか。こちらが本命だな」
 ではと、もう一度銭入れを取り出した。
「湯飲みを二つくれ」
 店主が源一郎と傍らの結衣を交互に見た。
「そちらの娘さんがお使いに?」
 源一郎が頷くと、男は片隅から二つの湯飲みを取ってきた。両手のひらに乗せて説明する。
「これは夫婦湯飲みです。差し上げますので、良かったら、お二人でお使い下せえ」
 大きめの湯飲みは深い藍色、少し小さめの湯飲みは愛らしい薄桃色だ。どちらも精巧な模様が刻み込まれている。今の季節に因んだ菊だろうか。
「さりとて、それでは儲けにならぬだろう」
 源一郎の言葉に、男は真顔で言った。
「この季節に風鈴を見て風流だと言って下さったのはお侍さまが初めてでさぁ。どうも生涯忘れられねえ日になりそうなんで、これは俺からのお礼だと思って受け取って下さいませんか?」
「うむ、それではかたじけなく頂こう」
 源一郎は礼を言って店主が包んでくれた二つの湯飲みを受け取った。
「どうぞお幸せに」
 店主は源一郎と結衣の関係を正しく見抜いているようであった。ふと源一郎が脚を止め、店主を振り返った。
「そなたには妻女はいるのか?」
 男の生真面目な顔がそのときだけ嬉しげに輝いた。
「へえ、五年前に一緒になった女房と今年の春に生まれたガキがいまさあ。なかなか子どもに恵まれなかったんですが、女房がここでお百度を踏みましてね。ご利益があって、やっと生まれました」
「そうか、子は男か女か?」
「女の子です、名はみつといいます」
「それは良かった。可愛い女房と娘を大切にな」
「ありがとうございます」
 男が頭を下げ、源一郎は今度こそ背を向けた。背後でシャランシャランと一斉に風鈴が鳴っている。源一郎の後について歩いていると、彼が唐突に言った。
「結衣、今日の湯飲みは祝言を挙げたら、二人で使おう。風鈴は来年の夏、新居に飾るんだ」
「新居、ですか?」
 茫然として訊ねる結衣に、彼は笑って頷いた。
「そうだ、俺たちが晴れて世にも認められた夫婦となって暮らす住まいにこの風鈴を真っ先に飾ろう」
「本当にそんな日が来るのでしょうか、幸せ過ぎて怖いくらい。まだ信じられません」
 偽りのない今の気持ちだった。こんなにも幸せで良いのかと思ってしまう。自分が武家の奥方になるなんて、まるで夢のような話だ。確かに現実のはずなのに、何故か遠い夢の出来事のような気がしてならない。
 源一郎が少し怖い顔になった。
作品名:霞み桜 作家名:東 めぐみ