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霞み桜

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「だが、泣くな。俺はどうも女の涙は苦手だ。惚れた女の涙なら尚更、どうして良いか判らぬ」
「申し訳ありません」
 狼狽える源一郎を前に良い加減に泣き止まなければと思う傍から、涙は堰を切ったように溢れてくる。
「頼むから、泣き止んでくれ」
 涙をせっせと拭いている源一郎と結衣を赤ら顔の娘が嫉妬と羨望に満ちた顔でボウと眺めている。娘は奥から女将に叱責され、慌てて新たな客の注文を取りに走った。

 その日を境にして、結衣と源一郎はゆっくりと恋を育んでいった。源一郎が美濃屋の勝手口まで迎えにゆき、二人肩を並べて江戸の町をそぞろ歩く。その中に美濃屋では源一郎のことを?お結衣ちゃんの良い男?と呼ぶようになり、そろそろ逢う日が近づくと、朋輩女中たちが
―そろそろあんたの良い人がお迎えにくるよ。
 と、冷やかすようになった。つまり、北町奉行所定町廻同心北山源一郎と結衣が想い人であるということは美濃屋主人夫妻も公認となったのである。
 季節はいつしかうつろい、源一郎とめぐり逢ってからはや三月(みつき)が経っていた。霜月の五日、結衣は彼と誘い合わせて随明寺に詣でた。
 随明寺は黄檗宗の名刹で開祖は浄徳大和尚。京都の万福寺を開いた隠元隆?の高弟の一人である。時の将軍家から紫衣を許されるほど徳の高い僧侶であったが、市井で民と共に生きることを選び、布教だけでなく自ら喜捨を募り江戸の土木工事などに従事し、生涯を衆生のために捧げた未曾有の高僧として今もその威徳を語り継がれている。
 広大な墓地には金堂を初め、三重ノ塔や閻魔堂、絵馬堂、僧堂など諸伽藍が点在し、最奥部には浄徳大和尚を祀る奥ノ院があった。境内地の隣にはこれまた広大な墓地が併設されている。
 毎月五日には縁日市が催され、広い境内はあまたの露店で埋め尽くされ、大勢の参詣客で賑わう。殊に十月五日は浄徳大和尚の祥月命日ということで、?大祭?と呼ばれ大がかりな法要が営まれる。
 金堂では百人近い僧侶が集まり読経し、その後、紅白の餅が僧侶たちにより金堂の回廊から参詣人に向かって、ばらまかれる。あまたの餅の中に?福?、?寿?、?浄?、?徳?と四つの文字が入っているものがあり、それらを得た者はその年一年の幸福が約束されるといわれていた。
 奥ノ院の傍らには通称?大池(おおいけ)?と呼び習わされる巨大な池が横たわり、到底人工の池とは思えぬ池は満々と水を湛えている。その汀には桜並木と楓の樹が植わっており、春には江戸名所図絵にも載るほどの江戸の花名所となり、秋には美しく池辺を彩る紅葉を愛でる人々の眼を愉しませた。
 奥ノ院に至る途中には絵馬堂がある。小さな朱塗りの鳥居の向こうに百度石が続き、小さな御堂がひっそりと建っているそこは、芸能と恋愛の神さまとして知られていた。実際、小さな御堂の正面格子扉には無数の絵馬が掛けられていて、何かそれらから不思議な力を感じるようでもあった。
 その日、結衣と源一郎もまずは金堂でお参りしてから、絵馬堂に立ち寄った。誰が掲げたのかは知らねど、とうに古びた幾多の絵馬たちには奉納した人々の切なる願いや祈りがこめられている。見つめていると、自然に敬虔な―頭が下がるような気持ちになる。
―源一郎さまといつまでも一緒にいられますように。
 結衣はひそかに祈りを籠め、賽銭を箱に入れて手を合わせた。傍らの源一郎も何やら熱心に祈っている。
 そのまま二人ともに黙って大池のほとりまで歩く。春の桜の時季はそれこそ花見客でごった返すこの場所も秋の今はさほどでもない。時折、紅葉狩りに訪れた人とすれ違うくらいのものだ。
 風もないのにはらはらと赤児の手のひらのような紅葉が舞っている。舞い落ちた紅葉が水面を飾り、大池の水面はさながら金糸で紅葉模様を縫い取った美しい布のように見える。
 ゆっくりと水面を漂う紅葉を眼で追いながら、結衣はつい考えてしまう。
―源一郎さまは何を祈ってらっしゃったのしから。
 そこは恋人同士、思うことは同じであったようだ。結衣が口を開きかけたのと源一郎が何か言いかけたのはほぼ時を同じくしていた。
「あの」
「実は」
 二人は顔を見合わせ、しばし見つめ合う。それからプッと吹き出した。
「俺が何を言いたいか、結衣には判るか?」
 結衣は悪戯っぽく笑った。
「では、源一郎さまは私の考えていることがお判りになりますか?」
「質問に質問で返すのは卑怯だぞ。では、まず結衣から申してみるが良い」
 いつになく勿体ぶった言い方に結衣はひそかに苦笑を零す。
「私は考えておりました。源一郎さまが絵馬堂で何を一心に祈ってらっしゃったのかと」
 源一郎がやや濃いめの眉をつり上げた。
「俺もだ。同じことを考えていた。あんなに一生懸命な顔をした結衣を見たことがない。何ゆえ、そこまでひたむきに祈るようなことがあるのかと気になっておった」
「つまり、私たちはまったく同じことを気にしていたのですね」
「そういうことになるな」
 そこでまた二人は微笑み合った。
「それでは」
 源一郎がまた鹿爪らしい表情で言った。
「二人同時にその応えを言うというのは、どうだ?」
 まるで子どもだが、結衣は真面目に頷いた。
「よし、では、一、二、三で応えよう」
 一、二、三と源一郎が数える。三のところで、二人とも口を開いた。
「私は源一郎さまとずっと一緒にいられますようにとお祈りしておりました」
「俺は結衣がこの先もずっと俺の傍にいて欲しいと願っていた」
 言い終えた時、源一郎の漆黒の瞳が無心に結衣を見つめていた。
「俺はその言葉を信じても良いのか」
「―」
 かすかに頬を染めて頷くと、そっと引き寄せられるのが判った。引き寄せられままに男の逞しい胸に身を預ける。
「好きだ。いや、もう、そんな言葉では足りない。愛している。結衣、妻になってくれ。そなたのことは兄上にも話している。兄上自身が身分違いの恋の末に結婚した人だから、その点は理解があるんだ。一度屋敷にも連れてくれば良いと仰せだし、義姉上もそなたに逢うのを愉しみにしている。もし上手くゆけば、来年中には祝言を挙げたい。承知してくれるか?」
「―そんな、私のような者で本当に良いのですか?」
 信じられなかった。あまりの幸運に頬をつねりたいくらいだ。自分が源一郎の妻になれるなんて―願ったこともない。
 ただ今のままで、大好きな男の傍に少しでも長く居られたらと思うばかりで、身分違いのこの恋は消して成就することはないのだと思い込んでいた、諦めていた。
「私のような者などと二度と申すな。俺はお前でなければならんのだ。結衣以外の女など欲しくはない。町方から武家に嫁ぐのは色々と大変ではあろうが、義姉上も町方の出だ。そなたは賢いゆえ、きっと数々のしきたりにも慣れて上手くこなすに違いない」
「源一郎さま、私、本当に嬉しくて」
 感情が言葉についてゆけず、気持ちを上手く伝えられないのがもどかしい。語りきれず溢れた想いは涙となった。
 源一郎の整った面に狼狽が走る。
「ああ、また泣く。そなたは泣き虫だな。そなたの泣き顔には弱い俺には、これは困ったところだ」
 結衣が涙を拭いながら言った。
「源一郎さまがおいやなら直します」
 フッと源一郎が笑んだ。
作品名:霞み桜 作家名:東 めぐみ