霞み桜
「作蔵も恐らくは出来の良い父親と比べられるのが嫌なのだろう。傑出した父親が大きな壁となって、あやつの前に立ち塞がっている。あやつはそれを越えられずに、無駄にあがいているのだろうよ」
源一郎は溜息をついた。
「そこで、あやつは考え違いをしている。無駄にあがこうとせず、何故、己れが偉大な父親をいかにしても越えられぬかをとくと考えてみれば良いのだ。見習うべきところは見習えば良い。そして、父親を越える大きな男になれば良い。とはいえ―」
彼はそこでフッと笑う。その淋しげな笑いに結衣は愕いて源一郎を見た。いつも明るい陽溜まりのような男が初めて見せた翳りのある素顔だった。
「俺も偉そうなことは言えぬ。結局、若旦那と同じだからな」
「何故、そのように思し召すのですか?」
源一郎がまた笑った。
「跡継ぎになれと兄に言われている」
「―」
無言の結衣に対して、源一郎は淡々と話を続けた。
「兄は早くに妻を娶った。俺の歳にはもう妻がいた。我が屋敷の用人を長らく務めた男の孫娘でな。嫁に行った娘の生んだ子ゆえ、町人であった。俺の父も母も当時はまだ健在で、この結婚には猛反対した。しかし、兄はその娘と添えぬのなら、家を棄てるとまで父に言い切った。結果、両親は不承不承、二人の結婚を認めたのだ」
源一郎が結衣を見た。
「世の中、上手くはゆかぬものだ。二人が祝言を挙げたのは兄が十八、兄嫁が十六のときであったが、今も子はおらぬ。恐らく子はできぬと医者からもいわれているようだ」
「だから、ご舎弟の北山さまをご後嗣にと兄君さまは望まれているのですね」
「兄が結婚した翌年、父が病で急死した。その翌年には母までもが後を追うように亡くなった。私は四歳から兄夫婦の許で育った。真実、兄夫婦が両親のようなものなんだよ」
結衣は控えめに言った。
「お武家さまとは大変なものなのですね。私のような一介の町人には窺い知れぬ世界だと判りました」
源一郎がいつもどおりの優しい笑みを浮かべた。
「周囲はずっと義姉を離縁して若く健やかな妻を娶るようにと兄に意見してきた。さりながら、兄は一切耳を貸さない。俺にもいつか言っていた」
―私は芳野を愛しておるゆえ、たとえ子が出来ずとも生涯添い遂げる。
「惚れに惚れて迎えた妻だ。兄の覚悟を俺は男として素晴らしいと思う。だが、それと自分が家督を継ぐのとはまた別の話だな。俺は次男坊だから、堅苦しいことは嫌いだ。兄夫婦にも自由にさせて貰ってきた。旗本の次男なぞ、冷や飯食いといって単なる厄介者に過ぎぬ。それなりの家の主(あるじ)になりたいなら、さっさと家を出て、どこぞの婿養子になるしか道はない」
源一郎が結衣を見た。
「俺は婿養子という質ではない。それも自分で判っていたゆえ、生涯独り身でもよいと思うていたし、武士の身分に拘るつもりもなかった。それが何の因果か、奉行所務めなぞするようになったのだ」
結衣の心で思い当たる節があった。
「では、北山さまに奉行所勤めをお勧めになったのはお兄さまなのですね」
今度は源一郎は笑って頷いた。
源一郎の打ち明け話に、結衣は愕いていた。同心といえば結衣のような町人からは偉い役人に思えるけれど、平の同心が幕府から賜る扶持はたかだか知れている。だが、実兄が旗本というからには、源一郎もかなりの格式を誇る旗本の子息なのかもしれない。
奉行所の上役だという兄もそれなりの役職についているのだろう。
―本当なら、この方は私のようなその日暮らしの町娘がお話もできないような人なのかもしれない。
何故か、そう思うと心が沈んでゆく。
そんな結衣の心を見透かしたかのように、源一郎が言った。
「済まぬ。つまらない話を聞かせた」
結衣は微笑んだ。
「いいえ、北山さまのことを色々とお聞かせ頂いて、嬉しうございました」
言ってから、これは少し言い過ぎで、はしたなかったかと頬を赤らめた。
源一郎は弾んだ声音で言った。
「まあ、明日の風は明日に吹くだな。今から遠い将来のことを考えてばかりいても仕方ない。正直言えば、親代わりに育てて貰った兄夫婦に報いるためには、俺が家督を継ぐしかないのだろう」
どこか諦観の滲んだ声音に、結衣は頷くしかない。お登勢の勘違いなど、とんでもなかった。町娘が同心の妻になるというだけでも夢のまた夢なのに、れきとした旗本のお殿さまの奥方になんて、あまりにも分不相応すぎる夢だ。そんな夢を見たら、仏罰が当たるだろう。
源一郎が結衣の気を引き立てるように言う。
「うむ、なかなかいける。結衣の申すとおり、ここのわらび餅は絶品だな」
美男が口中にわらび餅を頬張っている姿はなかなか見物ではあった。結衣が思わず忍び笑いを洩らすと、彼が不思議そうに訊いてくる。
「俺の顔に何かついているか?」
「いいえ」
笑いを堪えて応える結衣に、源一郎が更に言い募る。
「正直に言ってくれ」
「では」
と、結衣は右頬の辺りを押さえた。
「この辺りに、きな粉がついております」
彼は滑稽なほど慌てて、懐から手ぬぐいを出して、しきりに何もついていない右頬を拭った。
「これで良いか?」
「いいえ、まだ、たんとついております」
とうとう笑いを堪え切れずに弾けたように笑い出すと、漸く源一郎が気付いた。
「無礼なヤツめ、さては純真な俺を騙したな」
「純真かどうかは判りませんが」
結衣は笑い転げつつ、白状した。
「元から北山さまのお顔には何もついていませんでした。あまりに慌てられるので、つい嘘をついてしまったのです」
「そなたは男心の判らんヤツだ。男は好いたおなごの前では良い格好をしたいと思うだろうが」
丁度、水茶屋を手伝っている赤ら顔の娘がお茶のお代わりを置いていったばかりだった。冷たいわらび餅に温かいお茶を出すというのが店の拘りらしい。現に美濃屋でも、おこうは必ずよく冷やしたわらび餅と温かいお茶を奉公人たちにもふるまっていた。
見映の良い若い同心に十八ほどの娘はちらちらと未練がましい視線を投げてゆく。娘の置いていったお茶を飲もうとした結衣は思わず噎せてしまった。
「え、今、何と」
大きな眼を見開いて見つめる結衣に、源一郎は耳まで紅くなった。
「だから、そのだな。俺は結衣が好きだ。そなたに惚れたのだ!」
結衣はあまりにも予期せぬなりゆきに、呆気に取られた。源一郎が自棄になったようにふて腐れていった。
「俺が好きだと告白したことが、そんなに珍しいのか!」
「いいえ、そうではありません」
結衣はもうひと口だけ生温いお茶を飲み下し応えた。
「嬉しくて。あまりに嬉しくて」
言い終わらない中に何故か涙が溢れた。ポロポロと大粒の涙を流す結衣に、今度は源一郎が慌てふためく番だった。
「何故、泣く? 嬉しいのなら、泣くことはあるまい。それとも結衣は真は俺が嫌いなのか」
狼狽える源一郎を前に、結衣は大きくかぶりを振る。
「いえ、結衣は心底から嬉しいのです。だから、涙が出るのです」
「はて、女の心というものはよく判らんな。女は哀しいときだけでなく嬉しいときも泣くものなのか」
弱り切った源一郎、これまでさんざん汗を拭った手ぬぐいで結衣の頬に流れ落ちる涙を拭いてくれる。