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霞み桜

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「さようでございましたか。これは手前どもこそ、お見それ致しました」
 同心は幾ら勧めても、最後まで賄は受け取らなかった。茂吉は今時、こんな若い同心もいるものかと清々しい想いで源一郎を眺め、彼を勝手口に案内した。
「お役人さまを裏にご案内するのは失礼とは存じますが、何分、表ではごゆっくりとお話することもできませんので」
 と、番頭が説明した後、結衣が現れた。
 源一郎に少し外を歩かないかと誘われ、結衣は躊躇った。
「黙って出かけるわけにはゆきませんので、女中頭さまにお伺いしてみます」
 お登勢に許可を求めると、あっさりと許された。どうやら、男前の若い同心が結衣を名指しで訪ねてきたという知らせは既に美濃屋の奉公人の間に知れ渡っているようである。
「大人しげな顔をして八丁堀の旦那をたらし込むとは、たいしたものだ。首尾良くやりな。上手くいけば、あんたも晴れてお武家の奥方だよ」
 と、言葉は悪いが、お登勢なりに激励をしてくれたらしい。
「それは違うのですが」
 誤解だと言おうとした結衣の背をお登勢はバンバンと叩いた。
「何を照れることがあるのさ。なに、心配には及ばないよ。身分違いがどうとかいうのなら、ここの旦那さま、お内儀さんの養女にして頂けばよい。内儀さんは特にお前を気に入っていらっしゃるようだから、頼み込めば、それも無理じゃないと思うよ」
 謹厳ではあるが、人の好い女中頭は陰ひなたなく働く結衣を気に入っていた。それ以上、誤解を解く気力もなく、結衣はお登勢の許しを得て一時美濃屋を源一郎と共に後にしたのである。
「どうもえらい誤解を受けてしまったようだ」
 源一郎の開口一番に、結衣は大きく頷いた。
「そうですね、物凄い誤解です」
 源一郎は眼をしばたたき、結衣を見つめた。
「何だ、そなたも誤解を受けたのか?」
 そこで結衣は初めて自分たちの言う?誤解?が食い違っていることに気付いた。源一郎の誤解の所以を聞いた結衣は思わず笑ってしまった。知り合ってまもないけれど、彼が賄欲しさに商家を訪ねる強請紛いのことをするような人だとは思えない。
「それで、そなたの招いた誤解とは何なのだ?」
 結衣は少し迷い、正直にお登勢の勘違いを源一郎に話した。彼も自分と同じく大笑いするかと思いきや、予想に反して彼は端正な顔に思慮深げな表情を浮かべた。
「そうか、そんなことを言われたのか」
 源一郎があまりにも深刻そうなので、結衣は狼狽えた。
「済みません、お気を悪くしてしまったのですね」
 自分のような町娘、美濃屋のような大店のお嬢さまであればともかく、しがない小商人の娘は前途有望な同心にはふさわしくない。それで、源一郎が機嫌を悪くしてしまったのかと思ったのである。
 源一郎がフワリと笑った。
「いや、別に気を悪くしたというわけではない。俺がいきなり訪ねたことがそんな誤解を招いたのかと少し愕いただけだ」
 源一郎の笑顔はどこまでも爽やかで優しい。何故なのだろう、この笑顔を見る度に、胸の動悸が激しくなる。もっとこんな笑顔を見ていたいと思ってしまう。
 物想いに耽っている結衣の耳を、源一郎の声が打った。
「そなたのことが気掛かりでな」
 結衣は弾かれたように面を上げる。源一郎が頷いた。
「町役人である俺が様子見に繁く訪れているということが知れれば、あやつも少しは自重するだろうと思ってな」
 ?あやつ?が誰を指すのかは結衣にも判る。源一郎の気遣いがとても嬉しく、結衣は無邪気に笑った。その笑顔に源一郎がハッとした表情をし、眼を細めた。
 結衣は思い切って言った。
「北山さま。今日は是非、ご案内させて下さい」
「ん? どこかに連れていってくれるのか」
「はい」
 結衣は元気よく頷くと、先に立って源一郎を案内するように歩き出した。
 結衣が案内したのは浅草の水茶屋、つまり美濃屋の内儀おこうの実家だった。
 店は葦簀(よしず)で囲った小さな一角で、夕刻には畳む。おこうの両親はいまだ健在だが、現在、店を営んでいるのは兄夫婦だ。両親はおこうが美濃屋に嫁いだ際、信右衛門が隠居所を建ててやり、そちらで悠々自適の日々を送っていると聞く。
「ここのわらび餅は美味しいんですよ」
 結衣が我が事のように自慢げに言うと、源一郎は笑顔で頷いた。
「俺は甘い物なら何でも好きだ」
「今日はこの間のお礼に、私がご馳走させて頂きます」
 源一郎が破顔した。
「そのようなことは気にするな。そなたのお陰で、気恥ずかしさもなく甘物屋に入れたのだから、そのお礼だと思ってくれ」
 しばらく押し問答を続けた末、今回も源一郎が支払うことになった。あまりに頑なに言い張り続けては、武士である彼の体面を傷つけてしまうことになりかねない。
「実はここのお店は美濃屋のお内儀さんのご実家なんだそうです」
 打ち明けると、源一郎が眼を見開いた。
「そうなのか?」
「はい、だから、内儀さんもよく夏場には、わらび餅を拵えて私たち奉公人にまで振る舞って下さいます」
 源一郎はしきりに頷いている。
「まさしく内助の功。美濃屋の主人は良き妻女を迎えたというわけだな」
 更に彼は声を落として続けた。
「それで、若旦那の方はどうなった? その後、そなたによもや無体を働こうとはしておらぬだろうな」
 結衣は首を振った。
「それは大丈夫です。若旦那さまは普段、家にいらっしゃらないことの方が多いので。私も実のところ、あれからまともに顔を見ていないのです」
「良き後添えを貰ったとはいえ、美濃屋もなかなか気苦労が絶えぬな。さしものの大身代も肝心の跡取りがあれでは先行きが危ういものだ」 
 結衣も声を低めた。
「大きな声では言えませんが、美濃屋の旦那さまと若旦那さまは随分と前から対立しておいでのようです。たまに若旦那さまがお帰りになったら、旦那さまとは喧嘩ばかりで、その度に内儀さんは心を痛めておいでで、気の毒で見ていられません」
 言ってから、肩を竦めた。
「奉公人が主家の内輪をこんな風に喋ってしまっては駄目ですね。女中として失格です」
 源一郎が苦笑した。
「いや、案ずるには及ぶまい。美濃屋の主人と跡取りが犬猿の仲なのは世間でもとうに周知のことだ。あの家は若旦那の実の母親が生きている頃から何かと揉め事が続いていたからな」
 恐らくはお芙美の役者狂いやその挙げ句、事故死してしまったことなどを指すのだろうが、流石に結衣はそれについては相槌を打つのは控えた。
 源一郎も特に返答は求めてはいないようで、すぐに話を変えた。
「いや、俺はその意味ではあの馬鹿旦那の気持ちも少し判るよう気がしてならぬ」
 自分のことしか眼中にないあの身勝手な作蔵と源一郎では人間の出来が違う。何故、源一郎がそんなことを言うのかと結衣が小首を傾げると、彼はうす紅くなった。
「いや、その何というかだな。俺にも出来の良い兄がいるんだ。俺は両親の晩年に生まれた子で、兄とは十六も歳が離れている。それでも、出来の良い兄と幼い中から比較され続けて、いやになったことが幾たびもあった。あやつも同じだと思う」
 結衣は静かに問いかけた。
「若旦那のことですか?」
 ?ああ?と、源一郎がどこか遠い眼で頷く。
作品名:霞み桜 作家名:東 めぐみ