霞み桜
侍は奥まった席に座り、結衣は向かい合う形で座る。ほどなく注文を取りにきた四十ほどの年増女が彼にからかうような言葉を投げた。
「まあ、北山さま。今日は随分と可愛いお連れさんがいらつしゃるんですねぇ」
「煩い、余計なことを言うな」
北山と呼ばれた若い武士は仏頂面で応えている。彼は結衣には笑顔で言った。
「ここの店の汁粉はなかなかいける。内儀は口は悪いが、汁粉を作る腕は悪くない。気持ちが乱れているときは甘い物がいちばん効く。どうだ、食べてみぬか?」
「でも、お言葉に甘えるわけには」
結衣がおずおずと応えると、侍は破顔した。
「こう見えても俺は甘いものが大の好物でな。さりながら、むさい男一人で甘物屋に入るのはどうでも体裁が悪くて、なかなか入れぬ。今日はそなたと一緒ゆえ、入り易かった。これも人助けと思い、食べてくれ」
優しい男だと思った。ここまで言われれば、食べないわけにはゆかない。
「では、お言葉に甘えて頂きます」
結衣が頷くと、侍は笑った。
「そうこなくっちゃな」
早速、先ほどの女将を呼んで注文する。
「俺は熱々の汁粉を一つ。そなたは?」
結衣は小声で言う。
「私は冷たいのをお願いします」
「うむ、そうか」
頷き、それぞれ汁粉の熱いのと冷たいのを一つずつ注文した。
すぐに運ばれてきた汁粉はひんやりとして喉越しも良く、本当に美味しかった。侍は笑いながら言う。
「暑いときに温かい汁粉など食べるとは酔狂なとそなたは思うであろうが、これがまた格別に美味だ」
言いながら、男は懐から出した手ぬぐいでしきりに額の汗を拭いている。その様子がおかしくて、結衣は思わずクスリと笑った。
その刹那、男と結衣の視線が交わった。恐らく動転していた結衣が初めてまともに彼の顔を見た瞬間かもしれない。
漆黒の瞳は男にしてはやや大きめで、くっきりとした目鼻立ちが印象的だ。間違いなく美男の部類に入るだろう。殊に紋付き巻羽織の着流しの同心姿がその容姿を引き立てている。
「北山さまは、お役人さまなのですね」
今更と思うような言葉しか思い浮かばないのは、この男に間近で見つめられて頬が熱くなっているせいだ。
「うん? あ、ああ。まあ、まだ駆け出しの同心だがな。親戚が奉行所にいるのだ。本当は役人になぞ向いておらぬと断ったのだが、その人に是非にと乞われるというか勧められてやむなく」
「そうなのですか? 北山さまにはお似合いのお仕事だと思いますのに」
言ってから、町人風情が出過ぎた言葉だったと後悔する。
「ご無礼を申しました」
「いや、それは恐らく褒め言葉だと思うゆえ、ありがたく受け取ろう」
北山は大真面目に言う。結衣は微笑んだ。
「私が難儀していても、どなたも助けては下さいませんでしたが、北山さまだけが駆けつけて下さいましたもの。お役人さまはやはり正義の味方なのだと思いました」
「正義の味方か」
北山が呟き、吹き出した。
「綺麗なおなごに言われるのは、やはり嬉しいものだな」
くしゃりと端正な顔を崩して嬉しげに笑う。
しばらく他愛ない話をして店を出た時、北山がそれとなく言った。
「俺は北山源一郎。北町奉行所で定町廻りを務めている。そなたの名を訊ねても良いか?」
結衣は源一郎の漆黒の瞳を見つめ返し応えた。
「私は結衣と申します。美濃屋さんに奉公しております」
源一郎の眉がかすかに動いた。
「美濃屋、では、あの若旦那の家に奉公しているのか」
?はい?と頷く結衣に心配そうな声がかけられる。
「奉公先を変えるというわけにはゆかぬのか? あの男はそなたに相当執心していた様子、このまま大人しく引き下がっておれば良いが」
結衣は源一郎を安心させるように微笑んだ。
「私なら大丈夫です。それに、美濃屋さんには先月ご奉公に上がったばかりですし。間に立って紹介してくれた知り合いの顔もありますから、易々と奉公先を変えるわけにはゆきません」
源一郎が紅くなった。
「済まぬ。そなたにはそなたの事情があるというに、身勝手なことを申した」
結衣は首を振った。
「北山さまは私のことを心配して下さったのだと判っています」
源一郎が笑顔で言い添えた。
「もし困ったことがあれば、遠慮無く言ってくれ。俺で力になれることがあれば何なりと力になろう」
「ありがとうございます」
「俺は大抵、この近くの番所にいる。奉行所には怖いお歴々がひしめいているが、番所は書き役や岡っ引きの爺さんを相手にのんびりと世間話をしながら茶でも飲んでいれば良いからな」
これは内緒だぞ、と、しまいは悪戯っ子のように片目を瞑った。何故かその仕種に、胸の鼓動が速くなる。
「それで、どうだ?」
え、と、結衣が眼を瞠るのに、源一郎が期待満々といった顔で問うた。
「甘い物を食べれば、心が鎮まったであろう?」
まるで親に褒めて貰うのを待つ子どものような表情がおかしくて、結衣も笑った。
「はい、それはもうすっきりと落ち着きました」
「だろう? そいつは良かった」
源一郎は頷き、片手を上げた。
「それでは気を付けて帰るのだぞ」
結衣は頭を下げ、源一郎は背を向けて人波の向こうに消えた。それが、北山源一郎との出逢い―互いにひとめ惚れだった。
戸惑い〜うつろう刻の狭間で〜
その三日後、美濃屋を珍客が訪れた。突如として現れた若い同心に、美濃屋の番頭は狼狽えた。大抵、同心や岡っ引きがこういったお店を訪れるのはさる目的があるからだと店の者はよく知っているからだ。
三十ほどの番頭に耳打ちされて同心の対応をしたのは、美濃屋でも最古参の大番頭茂吉であった。先代信右衛門の頃から仕え、美濃屋のことなら当代の当主信右衛門よりもよく知り尽くしているといわれる美濃屋の生き字引である。
既に六十路近い大番頭の髪には白いものが目立つが、立ち姿はかくしゃくとして若い者にはまだまだ負けぬという気概を漂わせている。
茂吉は心得た様子でまだ若い同心に頭を下げ、丁寧な物言いで訊ねた。
「お役人さま、いつも見回り、ご苦労さまでございます」
茂吉は懐から懐紙に包んだ小さな包みを取り出し、同心に渡した。
「ただ今、手前どもは取り込んでおりまして、大変ご無礼かとは存じますが、茶菓などのおもてなしができませず。どうかせめて菓子などお持ち帰り下さいまし」
茂吉の言葉に、同心は瞠目した。
「これは」
言葉を失い、それから傍目にも気の毒なほどに真っ赤になった。
「済まん。俺は何もそういうつもりで訪れたのではない」
彼は役人らしくもなく、立ち上がると茂吉に一礼した。
「申し訳ない。拙者、北町奉行所の同心で北山源一郎と申すが、この店に結衣と申す娘がおると聞いて訪ねて参ったのだ」
通常、役人が大店を訪ねるというのは、賄、つまり賄賂を寄越せという暗黙の要求である。大体、紋付き羽織着流しの同心がこれ見よがしに店先に居座っていたのでは、客はおちおち寛いで買い物もできない。それを見越して?見廻り?と称して彼らはしばしば商家を巡回する。
商家の方も心得たもので、こういう場合、できるだけ早く賄を渡して役人に帰って貰う。茂吉が勘違いしたのも無理はなかった。
茂吉は細い眼をまたたかせた。