霞み桜
「若旦那さまもご存じのように、美濃屋の旦那さまはご立派なお方です。世間では色んなことを言う者がいるようですけど、旦那さまは若旦那さまのことを心から大切に思っていらっしゃるのが私には判るんです。若旦那さまは今は所帯を持つとかいう前に、旦那さまとじっくりとお話し合いになって名実共に認められる美濃屋の跡取りにおなりになる方が大切なのではありませんか?」
「おい」
低い声に、結衣は眼を瞠った。
「それは、どういうことだ! 何で結婚してくれと口説いたら、親父の話が出てくる?」
作蔵の顔が怒りに紅く染まっている。結衣は身を強ばらせた。
「皆、親父、親父、親父だ! 世間では皆が親父に同情してるんだ。出来損ないの倅を持った世にも優れた親父にな。だが、私はお前に求婚したんだぞ? お前はせめてそれに対して、はぐらかしたりせず、きちんと応えるべきじゃないのか?」
「私―」
烈しい剣幕に、結衣は怯えを宿した瞳で作蔵を見上げた。
「済みません。若旦那さまを怒らせてしまったんですね。失礼を申し上げてしまったのなら、このとおり、謝ります。でも、若旦那さま、私はまだ結婚とか、誰かの奥さんになるということは全然考えたこともなくて」
「なら、考えてくれ! な、今からでも考えれば良い。私はいずれ美濃屋の主人になる。お前は大店の内儀だぞ? 悪い話じゃない」
作蔵の瞳が異様な光を放っている。そう、庭で蝶を捕らえて踏みつぶしたときと同じ狂気を宿した瞳が結衣を射貫いた。
「結衣、私はもうお前にぞっこんなんだ。私の人生はお前なしでは考えられねえ」
まだろくに何も結衣のことを知らないであろうに、この思い込みの烈しさは何なのだろう。憑かれたような瞳が切迫しており、結衣に迫ってくる。
―怖いっ。
結衣は思わず後ずさろうとし、その細い手首を作蔵が掴んだ。
「この近くに出合茶屋がある。そこに行けば、二人きりでじっくりと話ができるから」
この男は結衣を昼間から連れ込み宿に連れてゆこうとしている。出合茶屋がどういう場所かを知らぬほどのおぼこではない。冗談ではなかった。どんなに奥手だと笑われても、結衣は最初は大好きな心から想う男と結ばれたかった。
「止めて下さい。私は行きませんから!」
両脚を踏ん張り、連れてゆかれまいとするも、哀しいかな、大の男と娘の力では敵うはずもない。いつしか結衣は作蔵に腕を掴まれたまま、ずるずると引きずられるような格好になっていた。
「いやっ、放して」
結衣が叫ぶが、作蔵は少しも頓着する風はない。道行く人も揉め事に巻き込まれるのを怖れてか、知らん顔を決め込んでいる。確かに、そのときの作蔵は関わり合いになりたくないと誰でも思うほど常軌を逸していた。
「誰か、助けて下さい」
救いを求めて周囲を見回しても、眼が合うと皆、そそくさと視線を逸らし足早に通り過ぎる。いかにも若旦那風の身なりの良い男と下女らしい若い娘では、幾ら娘が嫌がろうと金持ちの好色息子に捕らえられた哀れな娘だと捨て置かれるのがオチなのかもしれない。
このままでは本当に連れ込み宿に引き入れられてしまう。結衣が涙の滲んだ瞳で更に周囲を見回した時、向こうから駆けてくる人影がぼんやりと映じた。
もしかして、私を助けてくれるの?
儚い希望を抱いた結衣の耳に、凜とした声音が飛び込んできた。
「まだ陽が高い中から天下の往来で嫌がる娘を攫うとは、そなた、たいした度胸だな」
涙の幕で霞んでよく見えないが、どうやら助けにきてくれたのは武士らしい。結衣は心底安堵した。いかに美濃屋の嫡男であろうと、お侍さまには敵いっこない。
「お願い、助けて」
結衣の声に、若い武士が?もう、大丈夫?というように笑顔で頷いて見せた。
「何だ、しけた町役人の癖にでしゃばりやがって。俺の親父は天下の金を動かしてる美濃屋信右衛門だぜ? 地獄の沙汰も金次第ってさ、親父の金と力があれば、ご公儀のご沙汰もひっくり返せるんだ。手前みたいなさんぴんなんざ、すぐに首にしてやるぞ」
父親を嫌悪しながらも、逃げるときにはその父の威勢を笠に着る―、しかも信右衛門がお芙美の名誉を傷つけまいと金を使って死因を隠匿したことを堂々と暴露する。
最低の男だ。今日、束の間だけ作蔵の哀しい生い立ちに触れ、この冷酷な男の心の底にも人間らしい感情が流れているのだと思い直したばかりだったのに、これでまた作蔵を大嫌いになってしまった。
「言いたいことはそれだけか? 美濃屋の若旦那。いや、?馬鹿旦那?と言い換えた方が良いかな? あんたの噂は町でもよく聞くよ。できた親父さんの顔に始終泥を塗りたくってる、とんだろくでなしの息子だってね」
侍は作蔵に近づくと、造作もなく手を捻り上げた。
「い、痛ぇ」
その弾みに結衣の手を拘束していた作蔵の手が離れた。結衣は急いで作蔵から離れ、武士の背後に隠れた。
「くそう、結衣。逃げるな」
それでもまだ苦し紛れに結衣を睨みつける作蔵の手を更に侍が捻り上げる。
「一つ後学のために教えてやろう。女を口説くときは、あまりしつこくしすぎないことが肝要だぞ。しつこい男は嫌われる」
言い終わらない中に、侍は作蔵を突き放した。勢い余って、作蔵はその場に尻餅をついて転んだ。
「今度、この娘に狼藉を働いてみろ。すぐにしょっぴいてやるからな。お前のご立派な親父どのは公正明大な人柄で知られてる。放蕩息子の尻ぬぐいにまで大枚を払ってくれるほど気前が良いかどうか、そのときはとくと見物させて貰うぜ」
作蔵の顔は憤怒のあまり、赤黒く染まっていた。そのぎらつく双眸が結衣を捉えた。
「このままで済むと思うなよ。私に恥をかかせた償いは必ずさせてやるからな」
侍が鋭い声を放った。
「まだ申すのか? 衆人環視の中でか弱い女に無理強いしようとする方がよほど男として恥入るべき行為であると貴様はまだ判らんのか? 本当に救いがたい大阿呆だな」
クッと、作蔵が唇を噛んだ。視線だけで人を殺せるなら、この時、侍も結衣ももろともに作蔵の視線に射殺されていただろう。
「お前ら、今日のことを後悔するなよ?」
棄て科白を残し、作蔵は逃げていった。
「とんだ馬鹿旦那だな」
その声に、結衣は現に戻った。ハッと顔を上げ、深く頭を垂れた。
「ありがとうございます。お陰さまで、助かりました」
「いや、たいしたことがなくて何よりであった。怪我などはないか?」
心から気遣うような声音に、思わず涙ぐんでしまう。何より今になって恐怖が背筋を這い上ってきた。もし、この武士が助けてくれなければ、今頃、結衣は作蔵の思うようにされていたかもしれないのだ。
カタカタと華奢な身体を震わせる結衣を侍は心配そうに見ている。
「しばらく休んだ方が良さそうだ」
ついてきてくれと言われ、結衣は素直に侍についていった。彼が結衣を連れていったのは、その場所からさほど遠くない小さな甘物屋だった。
卓が三つあるきりの小さな店にはその時、若い娘の二人連れがいるだけであった。
姿の良い若い侍が女連れとあって、目立つらしい。若い娘二人がこちらを見ながら、ひそひそと囁き交わしている。特に男の存在が娘たちの熱い視線を集めているようだ。