霞み桜
納得しそうになり、結衣は黒い瞳を一杯に見開いた。
作蔵が意味ありげな流し目をくれる。
「つまりは、そういうことだ」
「ええっ」
漸く理解した言葉の意味に、結衣は白い頬を染めた。作蔵がプッと吹き出す。
「お前、面白いな。庭で見かけたときは何だか物凄く神経を尖らせていたようだが、今はあのときとは全然違う」
その指摘に、結衣はハッとした。作蔵と庭で遭遇したときは、蔵の鍵を検分した後だった。とはいえ、あのときの結衣の普段との相違は傍目には微妙なもので、凡庸な者であれば見抜けなかったはずだ。その些細な違いを目ざとく見抜いたとあれば、この若旦那、ただの色に狂ったろくでなしというばかりでもないのかもしれない。
今日は徳市に鍵型と美濃屋の見取り図を渡した。これで、引き込みの役目の半分は無事に終えたことになる。後は更に内情をつまびらかにし、押し込み当日の夜、店のあらゆる場所の閂を開けておくことだけだ。
その時、突然、内儀おこうの笑顔が瞼に浮かんだ。結衣のような女中にまで気遣いを忘れず、優しい観音菩薩のような女(ひと)。今、我が身がしていることは、おこうに仇なすことに他ならない。美濃屋の商いに関して、結衣は悪しき噂を聞いたことがなかった。
先ほど訪れた京屋などは市兵衛がかなりきわどいこともしていて、商いのためなら手段を選ばないため、?氷の京屋?とまで呼ばれているようだが、信右衛門に関しては一切それがなかった。信右衛門の口癖は
―儲けだけを追求するのは盗っ人と同じ。商いで得た儲けを世のため人のために還元してこそ、本当の商人なんだ。
若い番頭や手代にそう教えている。実際に、信右衛門は郊外で孤児を集めて育てている寺の住職に時折、寄進と称して多額の金子を融通しているようであった。
その時、初めて結衣の心に疑問が浮かんだ。
―私は一体、何をしようとしているの? 美濃屋の蔵に眠っているのは皆、真っ当なお金だ。今の旦那さんは間違っても強突張りでもなければ血も涙もない冷徹な商人ではない。
真っ当に働いて稼いだ金を横から奪う権利が誰にある? 私がこれからしようとしていることこそがまさしく罪と呼べるものではないの?
般若一味は基本的には犯さず殺さずの掟を掲げている。しかし、顔を見た店の者はたとえ幼い子どもであろうと容赦なく殺すこともあるのだ。押し込みの夜、美濃屋の者たちが全員無事でいるという保証はない。
結衣は横目で作蔵を見た。こんな男は、どうなろうと天罰だろうけれど。と、考えて、首を振る。たとえどんな極道息子であろうと、理不尽に生命を奪って良いものではない。
「あのときは突然のことで、愕きましたから」
言い訳にもならぬような言い訳をひねり出すと、作蔵はもうそのことについては聞いてはいないようだ。彼は伸び上がるようにして、前方を見つめている。
つられて思わず視線の先を辿ると、若い夫婦が子どもを連れて歩いていた。まだ二十代半ばほどの亭主が赤児を抱き、それよりや若い母親が三つくらいの男の子の手を引いている。
作蔵の親子を見つめるまなざしはやわらかく、彼の方こそ先日の荒んだ雰囲気を発散させていた男とは別人のようである。
「ああいうのは良いもんだな」
その口ぶりには心底羨ましげな響きがあった。
「てて親がいて、母親がいて、子どもがいる。そういう当たり前の光景にどれだけ憧れたか知れやしねえ」
そういう作蔵の整った横顔はどこか泣きそうに歪んでいる。
「若旦那さま」
思わず声をかけると、作蔵がニヤリと笑った。
「意外か? 俺がまともなことを言ったら」
結衣は?いいえ?と小さな声でかぶりを振る。
「俺のお袋は、本当にどうしようもねえ女だった。親父がお袋に愛想を尽かして若い妾に走ったのも、男としては理解できねえこともない。俺自身、よく憶えてるよ。まだ年端もゆかねえ倅の世話は女中や乳母に任せきりで、自分は芝居三昧。本音を言やア、よく親父がお袋を叩き出さなかったもんだと感心すらしてるさ」
だから、と、彼は天を仰いだ。
「所帯を持ったら、子どもはたくさん作って、俺は絶対に子どもに淋しい想いはさせねえと子ども心に思ってたなあ。親父は悪いヤツじゃねえが、あっちはあっちで幼い倅のことなんぞまるで眼中になく、商いひと筋だった。だから、二十歳で嫁さんを貰ったときも、馬鹿みたいに張り切ってたよ。女房は不細工で、俺の理想とはかけ離れたような女だった。それでも縁あって夫婦になったから、良い亭主になってやろう、てて親にも早くなりてえと思ってたんだぜ」
作蔵が泣き笑いの表情で結衣を見た。
「俺がこんな真っ当な夢を見てたのが信じられねえような顔だな」
結衣は微笑んだ。
「いいえ、安心しました。若旦那さまもちゃんと人の心をお持ちだったんだなって」
「人の心か、お前、俺を一体何だと思ってたんだ?」
まさか当人の前で気違いや鬼に見えたとは言えず、結衣は曖昧に笑った。だがな、と、作蔵は溜息混じりに続けた。
「女房は気位ばっかり高え、お袋のひな形のような女だった。俺はこれまでの夢が全部がらがらと音を立てて崩れてゆくような気がした。自棄のやんぱちで家を飛び出して遊廓に行くようになった。廓の女どもは金さえばらまけば、この世の極楽を見せてくれる。どんな優しい言葉も微笑みもそれは嘘だと知りながらも、俺はその偽りの生温(なまぬる)い幸せから抜け出すことはできねえ」
作蔵がついと動き、結衣の背後に回った。
「じっとしてな」
髪に手が触れるのが判った。結衣の不安とは裏腹に、作蔵はすぐに離れた。懐手をして、しげしげと結衣を眺める。
「うん、なかなか良い、よく似合う」
物問いたげな結衣の眼に、作蔵がニッと笑った。
「簪を挿してやったのさ」
その言葉に、そっと髪に手をやる。確かに蝶を象った簪が挿してあった。
「なあ、俺の夢を一緒に叶えちゃくれねえか?」
見上げれば、作蔵が眩しげに眼を細めて結衣を見つめていた。
「俺はお前のような娘を待っていたような気がする。顔が綺麗なだけじゃねえ、心の真ん中にこうピシッと芯が通っている。その癖、妙に優しいところがある。お前となら、子どもの頃から憧れた家庭を作って、真っ当に生きてゆけそうな気がするんだ」
作蔵の眼は真剣そのものだ。一時の気紛れだけに突き動かされて口にしている言葉ではないことも理解できた。
けれど、出逢って日も浅く、まだ互いのこともろくに知らない間柄で求婚を受けられるはずがない。それに、作蔵には口が裂けても言えないけれど、何の罪もない蝶をいきなり捕らえて踏みつぶしてしまった彼のあの残虐さの印象が今も強すぎた。
今の彼はあのときとは全然違う。だが、作蔵という男がああいう残酷な一面を持つことは間違いない。そんな男と生涯を連れ添うなど、到底考えられない話だ。
結衣は一旦うつむき、顔を上げた。どう言えば、作蔵を納得し怒らせないように求婚を断ることができるのか。
背筋を冷たい汗が流れ落ちたのは、暑さのせいだけではないのかもしれなかった。結衣は小さく息を吸い込んだ。