「親はデブと甲斐性なし」
当時の修行僧の多くは、血筋を気にしてる者が多く、公家や家柄が伴わない僧を見下していた。
親の出世欲の為に、無理やり寺に入れられた子僧は捻くれていた。純粋に善の道を学ぼうとする謙虚な子僧は、
「武僧兵教育」の名の下で、しごかれる。
所謂、虐めの様なものである。
力の強いモノが結局は偉い。仏教とは何ら関係のない空気の中で千菊丸は育ち、ある時、寺を捨て、貧乏寺の門を叩いた。
貧乏寺は豪族や大名に媚びない宗教観を持っていて、農民の暮らしを第一に考え、農民と共に生きる。そんな善寺だった。
農業で作った作物は、困っている民が居れば分け与える。寺の僧は常に生きるか死ぬかの極限状態にあった。
、
皇族同士の戦争がまた起こる。応仁の乱だが10年を超えて続く、過酷の戦争であり死者は数十万を超えた。。
日本全土の町は幾度も火の海になり、年貢も多くなり、餓死者を出した。大名の多くも労働者を多く失い生活が苦しくなった。
この戦争を契機に人々は武士や大名を信用しなくなり、より強く仏の宗教に安らぎを求めた。
千菊丸が人々に必要とされたのは、たまたまか、やはり悪魔の成せる技なのか……
いずれにせよ、権力に逆らえる更なる武僧兵が仏教界は必要とされた。
千菊丸こと一休宗純が、大衆の人気を得ている事に目をつけた将軍は、イメージアップの為に大きな寺を作り、その寺の和尚(管理者)に一休を任命し、大名や豪族の子供を寺に入所させた。
一休は母親を将軍に人質に取られていたから、任命に逆らえなかった。
大名(金持ち)の子は甘やかされていた。我侭放題であり、一休の見えないところで、小僧クラスメイトを自殺に追いやった。
自殺とは名ばかりであり、殺人同然だった。将軍のイメージ保持の為に、事件は隠蔽される
この時代の一休に何ができたのか?
武僧兵となり、天皇を討つ事か?
あるいは将軍を討つ事か?
一休は仏の存在を信じようとする世界を呪った。
天皇も皇族も貴族も大名も平民も、
仏にうつつをぬかしていた。
戦乱の世でも、仏に縋る人ばかり
仏さえ信じていなければ、寺の中で虐め殺人事件は起こらなかった。
今更一休にできることはなかった。
できることは死を持ってして、仏の存在意義が無い事を世間に訴えることのみ
だが一休の考え方は浅墓だった。1000年続いた仏の風習を
たかだか一世代で変えられる筈がない。
仏を否定して民衆の不信感を得たとして、弱き人の信じる道を奪うだけ、
一休は、それから先、民衆に対して反面教師となった。
僧侶も仏もロクデナシ、人でなし、そんな記憶が残れば仏を信じない人が増やせる気がした。
だが一休の死後も仏教は続いた。
一休の魂は死後、白い世界に入るのだが、それ程多くのカルマを達成しただろうか。、キリストの様に世の救世主として人の命を救っただろうか
この時点では救えてない。しかし仏教を否定する行為で、その後に続く1000年の間に犠牲になる筈だった魂が救われる
一休が居なければ、西暦2000の今でも、科学は仏教の下に位置していた。
信長も秀吉も一休の魂の影響を受けて神仏を否定して、虐殺をするが、、それは悪魔の仕業だ。
悪魔さえ存在していなければ、21世紀はもっと平和であったワケなのだが・・・
ーツタンカーメンの謎についてー
ツタンカーメンのミイラは多くの黄金と共に発見された。盗掘を恐れて、墓は人目につきにくい場所に隠されていた。
ツタンカーメンの死亡時期は考古学的に紀元前1300年頃とされている。しかし、その頃に黄金を加工してマスクを作る技術が果たしてあっただろうか。
Wikipediaでクレオパトラとツタンカーメンを比較してみる。
生きた時代に1000年の差があるにも関わらず、造形技術に違いない。
実はツタンカーメンは王名表に記載されてない。にも関わらず学者が王だと判断した。その根拠は死体の傍にあった朽ちた花の炭素年代測定と、その年代に少年王の壁画があったから、という2点を関連付けたから
王名表に記載がない者が王なのだと無理やりこじつけたのは、考古学者が頭が悪いからか、それとも悪魔の陰謀でそうなってるのかもしれない。
エジプト後期、ローマ軍とエジプト軍は衝突した。歴史的にエジプト文明が滅びる直前の出来事として記録に残っている。このタイミングで王に即位したなら王名表に名前を刻む余裕はないはず。
ツタンカーメンはクレオパトラの1000年前に生きたのではなく、クレオパトラの後に存在していた。
つまり、悪魔の実験(人工妊娠)でクレオパトラは孕まさせられて産んだのが、ツタンカーメンこと本名リオンである。
「リオンは誰の子供なのか?」 国は騒いだ。噂話はドラマチックなものを求めて尾ひれがつき、、ローマの有名な武人カエサルの子なのだと
広がっていく。
ところで
なぜ、炭素年代測定に1000年の誤差があるのか? 答えはシンプルである。
エジプトの衰退末期に、ローマ軍が内地に侵入してくる段階において、ツタンカーメンは自身の墓をまだ作っていなかった。死後に蘇る為には、誰にも荒らされない墓に入らなければいけない。
そもそも、戦争に負ければ墓に入る事さえできない。
ツタンカーメンはローマ軍と交渉した。第二次世界大戦の集結で、天皇が責任を免れるようとアメリカと交渉したのと、同じ仕組みである。
歴史の記録ではクレオパトラの旦那(アントニウス)はローマの武人である。アントニウスの親族はローマ軍を率いる司令官、オクタビアヌスである。
ローマ軍のトップに、ツタンカーメンの親戚がいたから、
開戦前に、ツタンカーメンの死体を回収する手はずを作る事はできる。
しかし、それはローマへの背任行為となりかねないので、ミイラ作りと墓への埋葬は隠密に行われる。適当な墓をこじあけ、そこにあった誰のか分からないミイラを捨て、その墓にツタンカーメンのミイラを埋葬した。
ツタンカーメンの墓の隣に、もう一つの墓があり、そこにミイラが乱雑に捨てられていた事実について、どれだけの考古学者が注目しただろうか。盗掘されて墓荒らしにあった運の悪いミイラなのだと、学者らは単純解釈した。そのミイラと、ツタンカーメンのミイラが、すり替えられた可能性に気付くには、、考古学の観点から思考するより、政治的観点から思考しないと、不可能だろう
という訳で クレオパトラ時代より1000年前の墓にツタンカーメンは入ってしまい、エジプトの歴史がデタラメになった。
現段階でこの真実は悪魔と天使と、その子、宇宙人たち、これを読んでる読者しか知らない。
クレオパトラのミイラが見つかり、ツタンカーメンのミイラとDNa親子鑑定されない限り、歴史は覆えらない。
悪魔も天使も神(キリスト)の転生者も、宇宙人も、カルマシールドも、クレオパトラのミイラが見つからない事には、その存在を証明できない。
クレオパトラのミイラは何処にあるのか、
ツタンカーメンはラストエンペラーなので墓に黄金の装飾を使い切った。その親であるクレオパトラは墓を使い切った。
墓の場所は、どこだろうか
作品名:「親はデブと甲斐性なし」 作家名:西中