Hidden swivel
【七】 二〇一七年 二月四日 午後一時
インプレッサXVの運転席で、姫浦は窮屈そうに伸びをした。遠野は助手席から、姫浦の横顔を観察した。三日前、タイラップを首に巻かれて殺されかけた日。姫浦は、土曜日の朝にスーツ姿で指定した場所へ来るよう、遠野に伝えて姿を消した。言われたとおりに慣れないスーツを着て、午前十一時にインプレッサに乗り込み、ここまでの二時間、一度も止まることなく走った。
『色々準備があったので』
三日を要した理由を、姫浦はそう説明した。出で立ちは相変わらずで、保険のセールスレディのようなスーツに、しなやかな身のこなしは健在だった。遠野にスーツ姿で来るよう指定したのは、外回りに見えるようにする為だと、姫浦は説明した。遠野が煙草を吸いたい欲求に駆られてポケットを探っていると、姫浦が前を向いたまま言った。
「あの車に見覚えはないですか?」
「どの車だよ?」
遠野は辺りを見回した。低い山の中腹に設けられた展望台。その駐車場から見渡せる田舎町の景色は、どこを切り取っても同じに見えた。誰かの銅像が建てられていて、その目線はインプレッサのすぐ横をじっと見つめている。
「せめて、わたしと同じ方向を見てもらえますか」
姫浦はそう言って、補助するように細い指で指差した。遠野は指を追い、それまで見落としていた自分に苛立ちを覚えた。豆粒のようなサイズだが、はっきり分かった。六年前、治美の運転するプレオと衝突事故を起こした車。それが景色の中央からやや右手に見えた。空き地に停められた、七七年型のギャラン2000GSR。間違いなく、あれは大島の車だった。周りは畑しかなく、がらんとした殺風景な場所だった。
「処分されてないのか?」
「ええ。一年前の時点で、ナンバーはついてませんでした。事故で歪んだフレームを修理した跡があるはずです」
「あいつ、あれからも乗ってやがったのか……」
遠野は独り言のように呟いた。姫浦は、その横顔に一瞬だけ視線を走らせた。遠野は、再び前を向いた姫浦に向けて言った。
「とにかく、あれが奴の家なんだな?」
「そうですね」
姫浦はそう言って、今度ははっきりと遠野の方を向いた。遠野は、その不自然に暗い色をした目をしばらく見返していたが、やがて少し目線を逸らせた。
「聞きたいことは、それだけですか? あなたは、大島がどのような人間だったかということが、気になっているんですよね?」
姫浦は、遠野の顔に浮かんでいる疑念を見て取った。遠野は首を横に振った。
「ブレーキ痕がなかったんだ」
遠野は、自分が最も疑問に感じていたことを、姫浦に言った。大島に直接関係ないことでも、姫浦は何らかの答えを導き出す。遠野は、首を絞められて殺されかけた初日から、何となくそう感じていた。姫浦は、その疑問に答える必要があることに気づいて、ゆっくりと瞬きした。
「事故は夜でしたね。居眠り運転をしていたんじゃないですか? 治美さんは、何かの帰り道だったんですか?」
姫浦の口から妻の名前が飛び出して、遠野は身構えた。名前は伝えていなかったはずだった。少し息を深く吸い込んでから、言った。
「実家に寄った帰りだった。なあ、治美は……、居眠りとかわき見とか、するような人間じゃないんだ。その辺本当しっかりしてるというか、想像できないんだ。あいつが居眠り運転なんて……」
「人間は、頼りない生き物です」
姫浦はそう言って、前に向き直った。
「殺す前に、大島に事故のことを色々聞きました。衝突する寸前に、運転席を見たそうです。奥さんは目を瞑っていたと、言ってました」
「嘘だ!」
遠野は反射的に大きな声で言い返した。
「あんな奴の言うことを信じたのか? 今から殺すってときに?」
「聞いただけです。わたしは何も信じてません」
姫浦は表情を崩さずに言うと、シフトノブに左手を置いた。
「結論が出ることもあれば、出ないこともあります。大島が死んだというのは、ひとつの結論ではないですか?」
「そうだな」
遠野は、姫浦に諭されるように言って、うなずいた。姫浦はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「あなたの後悔は、何ですか?」
意外な言葉に感じて、遠野は呟くように答えた。
「直接あいつが死ぬところを、見なかったことだ」
「鍵は、わたしが持っています。家の中を見てみたいですか?」
姫浦はそう言って、ポケットからジップロックに入った鍵の束を取り出した。錆びた鍵が二つと、三菱のロゴが入ったキーホルダーがぶらさがっている。遠野は、すでに死んだはずの大島が再び息を吹き返したように感じて、震えかけている左手を右手で押さえた。
「もしできるなら、お願いしたいね」
「では、夜まで待ちましょう」
姫浦はそう言って、鍵をポケットに戻した。遠野は、かすかな希望に命の糸を継いでもらったように、少し表情を緩めた。姫浦は、その横顔を見ながら言った。
「大島がどういう人間なら、納得しますか?」
「そうだな……、連続殺人鬼とか?」
姫浦は、その冗談めいた言葉に作り笑いを返した。同時に理解した。遠野の心にあるのは、凡百の罪悪感に過ぎない。それは記憶する限り、姫浦自身が持ち合わせていない『能力』だった。
【八】 二〇一七年 二月四日 午後三時
瓦は、ミラココアの数十メートル後ろでランドクルーザーをアイドリングさせながら、動きを待った。織島の運転するミラココアは、しばらく広域農道を走った後、また別の国道へ合流して、田舎町にたどり着いた。今は信号待ちで停まっている。瓦は、今走っているのが捜査範囲から完全に外れた場所であることに気づいて、さっき感じた熱意が少し醒めるのを感じていた。野崎はスマートフォンで、近くのレストランを検索していた。
「かわちゃん、お腹空いたよ」
「もうちょっと我慢してくれ」
瓦はそう言って、ミラココアが発進するのに合わせて、ランドクルーザーをゆっくりと進めた。
「煮込みハンバーグが名物。温泉卵は自家製。五つ星で四つだって。近いよ。ここ行こうよー」
野崎はそう言って、瓦にスマートフォンの画面を見せた。瓦は横目でちらりとその画面を見ながら、ミラココアの行き先を目で追った。
「そうだな、開いてるのか?」
「夜は五時からだって。二時間待たなきゃいけないのかー」
野崎はしかめっ面を作ると、諦めたように、大きな背もたれに体を預けた。
「かわちゃん、ケーサツ時代の話しないよねえ。どんな感じだったの?」
野崎は警察のことを殊更、間延びした発音で表現する。瓦は、首を横に振った。
「警察のときは、今とは違って生き生きしてたよ。犯罪者はどれだけ捕まえても、次が出てくるんだ」
「へえ、かわちゃんは刑事だったんだよね?」
「そうだよ」
「いっぱい捕まえた?」
その子供のような言い草に、瓦は笑った。顔見知りの殺しに、無差別な通り魔殺人。色んな事件に関わり、自分の役割を人並み以上にこなした。三ツ谷沙希の事件だけ、それが叶わなかった。そして、それは心の足元を掬った。
「そうだな。おれは結構優秀だったんだ」
野崎はハンドバッグからクッキーを取り出して、封を開けた。食べ始めたのを見て、瓦は意外そうに野崎の方をちらりと見た。
作品名:Hidden swivel 作家名:オオサカタロウ