Hidden swivel
その競争は、本当の人生を捨てる覚悟を決めた二人がようやく見つけた希望の、唯一の取っ掛かりだった。
【十三】 二〇一七年 二月五日 午前零時
遠野は、諦めたようにうなずいた。姫浦は、髪が落ちないようにシャワーキャップを被った遠野の様子を、じっと見つめていた。家の中は、人が住んでいたとは思えないぐらいに整理整頓されていて、写真すら数枚しか存在しなかった。ほぼ全ての部屋を見て回った遠野は、肩をすくめた。
「降参だ」
「ここまで綺麗な部屋だと、住んでいたのかも怪しいものですね」
真っ暗な部屋の中で、姫浦は自分の頭に巻いたシャワーキャップの位置を調整した。遠野の旅は、終わりに近づいている。しかし、その頭に残る疑念がより大きく、致命的な強度になっているのは明らかだった。これから先、本当の意味で妻の死に囚われた残りの人生が始まる。姫浦は、遠野の様子を見ながら、そのように確信した。
「わたしからも、質問があります」
その声は抑えられていたが、遠野を振り向かせるのに十分だった。姫浦は家から出る準備をしながら、言った。
「後でいいので、治美さんの性格を教えてください」
「急にどうしたんだ?」
遠野は眉をひそめた。姫浦は玄関のドアを開け、スニーカーを履いてシャワーキャップを取った。裏手に停めたインプレッサXVの方向へ歩き出そうとすると、遠野が言った。
「車がまだだ」
「本気ですか?」
姫浦は目も合わせずに言った。遠野は食い下がった。
「外は人目につくから、ダメなんだろ。分かるよ。でも、どうしても見たいんだ。あんたが嫌なら、一人で見てくるよ」
姫浦は遠野を振り返った。その目は、最初に命の残り時間を二分と宣告したときと同じように冷たく、遠野は答えをじっと待った。
「では、手短にお願いします」
姫浦はポケットにしまいこんだ鍵を取り出して、ギャランが停められた空き地へと歩いていった。遠野は並んで歩きながら、遅れないよう早足で歩いた。姫浦は鍵を遠野に手渡して、言った。
「わたしが中断と言ったら、すぐにやめてください」
「分かった」
遠野は鍵を差し込んで、捻った。埃だらけのドアノブを手袋越しに掴んで捻ると、ドアは軋みながら開いた。内装はところどころ破れていた。センターコンソールにひびが入り、シフトノブは一速に入ったままになっていた。遠野はドアを開けたまま運転席に座り、キーを挿して捻った。バッテリーはとうの昔に機能を停止していて、予想通り何も起こらなかった。
「中断」
一分も経たない内に姫浦が呟き、遠野が反応するよりも先に手を強く引いた。遠野は思わず地面に転び、唸りながら立ち上がった。
「返事を待たないなあんたは」
姫浦は遠野の手を掴んだまま、空いているほうの手でギャランのドアを閉めた。シャワーキャップを遠野の頭に被せて、玄関から家の中に押し戻した。自分の頭にもシャワーキャップを留めると、窓から外を伺いながら、遠野に言った。
「ライトが見えました。車が一台来ます」
遠野は、姫浦が言った方向に目を凝らせた。点のように見える光が徐々に大きくなってくるのが見えたが、まだかなり離れていた。
「あんた、目がいいな」
古い型のグランドハイエースが数百メートル手前でヘッドライトを消したのを見た姫浦は、窓から遠野を引き剥がした。居間の真ん中に連れて行き、無理やり頭を下げさせた。
「ここで、見えないように頭を低くしていてください」
部屋の真ん中は無防備に思えたが、遠野は言われたとおりに頭を低くして、待った。姫浦は二階へ続く階段をゆっくりと上がった。その右手に拳銃が握られていることに気づいた遠野は、今すぐ後を追って、もうやめにするよう提案したい欲求に駆られた。
「前の道を塞ぐように停めるんだ。そうだ、そうそう」
押村は、スモーク張りになった後部座席から指示を飛ばしながら、自分が一番落ち着かない様子で周りを見回した。御池は敷地に一度グランドハイエースの頭を突っ込んでから転回させ、来た方向に鼻先を向けた状態で停めた。押村は小さく拍手しながら、興奮を隠しきれない様子で言った。
「お前、慣れてるじゃん」
島内は、数日前に見たギャランを助手席から見ながら、覚悟を決めた。押村がそれを逆なでするように、言った。
「よし、シマの出番だな。マジックハンドを見せてくれや」
島内は返事の代わりにグランドハイエースから降りて、リアハッチを開けた。廃油処理箱とオイル、そしてバッテリーを持って、ギャランの真横に置く。試しにドアノブを捻ると、ドアは簡単に開いた。その開き方に違和感を覚えて、島内は顔をしかめた。押村がひそひそ声で言った。
「どうした?」
「いや、何でもないっす」
島内はドアを完全に開けた。ほとんど軋み音もなければ、埃や剥がれたモールが散らばることもなかった。そのシリンダーに鍵が刺さっていることに気づいた島内は、押村に言った。
「鍵がささってます。もう、やめましょう」
「何でだよ、ラッキーじゃねえか」
押村は鍵があることが免罪符のように、自信に満ちた様子で言った。
車をはるか手前に停めて、家に忍び寄る。それが神沢と織島の考えた『作戦』だった。しかし、真っ暗闇の中を二人で歩くというのは、どうしても過去を思い出させた。家が見えるところまで来た織島は、ヘッドライトを消してミラココアを路肩に寄せた。
「こんなところまで来ちゃったよ」
「大丈夫」
神沢は、織島と自分自身を安心させる為に、強い口調で言った。例の家は、肉眼で見えるぐらいの距離にあった。その裏手には、あのギャランが停まっているはずだった。家の前にグランドハイエースが停まっていることに遅れて気づいた二人は、顔を見合わせた。織島が言った。
「あれ、誰かな?」
「分からない。知り合いとか?」
暗黙の内に、二人は待つことに決めた。
作品名:Hidden swivel 作家名:オオサカタロウ