第一章 桜の降る日に
1.舞い込んできた小鳥−3
「面会の用意ができるまでお待ち下さい」と言われ、メイシアが案内されたのは、明るい小部屋であった。
応接室、とでもいえばよいのだろうか。ゆったりとしたソファーが二脚、テーブルを挟んで向かい合わせに据えられていた。テーブルの上には品のよい陶花器。小さな黄色い花房をつけた枝が挿されていた。素朴で可愛らしい花だが、残念ながらメイシアはその名を知らなかった。
すぐにも総帥の鷹刀イーレオに会わせてもらえるものと思っていた彼女は、肩透かしを食らった気分であった。
勧められたソファーに、浅く腰掛ける。
部屋に待機していたメイドが、彼女の到着を待って紅茶を淹れてくれた。とても飲み物を楽しめる心境ではなかったが、ダージリンの高い香りが彼女の鼻孔を優しく、くすぐった。
「その顔のほうが素敵よ」
自然と顔を綻ばせたメイシアに、向かいに座ったミンウェイが口元を緩めた。そして彼女は後ろに控えていたメイドに「あなたにお茶を頼んで正解。ありがとう」と、労う。メイドは嬉しそうに頭を下げて退室した。
まるで賓客を迎えるかのようなもてなしぶりに、メイシアは困惑していた。
柔らかく日差しの入る大きな窓が、少しだけ開いていた。
不意に強い風が吹いてきて、レースのカーテンが大きくはためく。「風が強いわね」と言いながら、ミンウェイが席を立ち、音もなく近寄って窓を閉めた。
廊下を歩いているときにも気づいたのだが、ミンウェイは足音を立てない。メイシアは初め、彼女の靴が特別なのかと思った。しかし、そうではない。足の運びが違うのだ。メイシアの家の警備の者たちと同じ歩き方をしている。間違いなく彼女には武術の心得がある。それは彼女の女性らしい豊満な胸とくびれた腰を強調する、ぴんと伸びた背筋からも感じられた。
ミンウェイは、ただの案内役ではないだろう。廊下で使用人たちとすれ違うたびに軽く声をかけていた様子からも、かなりの重要人物であることが窺える。総帥の血族か姻族だろうか。
「藤咲さん……メイシア、とお呼びしていいかしら」
「はい、どうぞ」
ミンウェイの親しげな笑みにつられ、メイシアも表情を緩めた。
しかし、その顔は、ミンウェイの次のひとことで凍りついた。
「メイシア、あなたは貴族(シャトーア)ね」
動揺に、言葉が出ない。
そんな彼女の心を読んだかのように、ミンウェイが続ける。
「見れば分かるわ。服装、持ち物、言葉遣い、物腰……。小綺麗な平民(バイスア)と言うには無理があるわね」
メイシアは思わず、自分の姿を確認してしまった。少し無理をして着ている、胸元が開き気味のワンピース。上品な淡いピンク色で、素材は上等な絹だ。
隠すつもりはなかった。
だが、貴族(シャトーア)は、身分の低い者たちに疎まれがちである。初めは伏せておき、鷹刀イーレオに会ったら自分から明かすべきだ、と考えていた彼女にとって、不意をつかれたも同然だった。
「はい。……私は貴族(シャトーア)です」
メイシアの肯定を受けると、ミンウェイは急に険しい顔になった。
「私は、貴族(シャトーア)には、ふたつの人種があると思っているわ。ひとつは、自身のために手段を問わない『捕食者』。もうひとつは、か弱くて善良な『被捕食者』。凶賊(ダリジィン)が手を組むのは、前者のタイプの貴族(シャトーア)よ。――そして、あなたはどう見ても後者ね」
ミンウェイは膝を詰めるように、上半身をメイシアに寄せた。それは、決して大きな動作ではなかったのだが、ミンウェイから漂う柔らかな草の香りが、メイシアの前に立ち塞がるかのようだった。
「あなたは凶賊(ダリジィン)と関わるべきではないわ。きつい言い方をすれば、『世界が違う』のよ。――だから、帰りなさい」
その言葉に、メイシアは、ゆっくりと頭(かぶり)を振った。長い髪がさらさらと背中を流れる。それは、手入れの行き届いた貴族(シャトーア)ならではの鴉の濡れ羽色だった。
「帰ることはできません」
父と異母弟の顔が頭をちらつき、メイシアの瞳にうっすらと涙が浮かんできた。彼女は声の震えを抑え、訴える。
「……私には、どうしても武力が必要なのです」
「どうして?」
メイシアは唇を噛み、毅然と答えた。
「私の家族を助けるためです」
「武力が必要というだけなら、何も凶賊(ダリジィン)を頼らなくてもよいでしょう」
「確かに、その通りです」
それは、この屋敷に着くまでに、自問してきたことだった。
「ですが、私の大切な家族の命がかかっているのです。ならば、この国で最も強いと言われる鷹刀一族にお願いするのが一番確実ではありませんか?」
揺るぎないメイシアの瞳。
か弱くて儚い、ほんの少しの衝撃で脆く崩れ落ちてしまいそうな貴族(シャトーア)の娘が、凶賊(ダリジィン)であるミンウェイの反論を許さなかった。
「いい目ね……」
ミンウェイは、溜め息をついた。
「その思いを総帥に伝えてみるといいわ」
そこにはもう、さきほどの険しさは微塵もなく、慈愛すら感じられる眼差しがあった。
メイシアの瞳から、ほろりと涙がこぼれた。慌ててハンカチを求めるが、ハンドバッグは門で渡したままだった。
ミンウェイが、すっとハンカチを差し出す。そのとき――まるで話の区切りがつくのを待っていたかのように、ミンウェイの携帯端末が鳴った。
それに小声でひとこと、ふたこと答えると、ミンウェイはメイシアに告げた。
「もうすぐ迎えが来るわ」
メイシアの緊張感が一気に膨らみ、傍目に分かるほどに顔が強張る。
ミンウェイが困ったように笑った。
「メイシア、そのテーブルの花を知っている?」
「いいえ、知りません」
「キブシというの。倭国の固有種よ。花言葉は『待ち合わせ』『出会い』……」
ミンウェイの言葉の途中で扉がノックされた。彼女はゆっくりと立ち上がり、ドアノブに手をかけながら残りの言葉を発した。
「……『嘘』」
がちゃり、と音を立てて、扉が開かれた。
「お待たせいたしました」
心地のよい低音が響く。
立ち襟の上衣をきっちりと着こなした男がにこやかに微笑んでいた。
「私はこの屋敷の執事でございます。では、ご案内いたします」
整った容貌に細身の眼鏡。肩幅は広く、均整のとれた体つきをしている。落ち着いた物腰から推測するに、充分に経験を積んだ五十代半ばの実力者といったところだろうか。
執事は恭しく一礼をしてメイシアを促した。
彼はかなりの長身だった。背の中ほどで髪を緩く一つに纏めていたのだが、その結び目を追いかけるような形で、メイシアは絨毯の敷かれた廊下をついていった。その後ろにミンウェイが続く。
いくつか角を曲がり階段を上り、奥の部屋についたところで執事が振り向いた。
「こちらでございます」
彼はすっと横に動き、目の前の扉を示した。
扉には大きく翼を広げた鷹の彫刻が施されていた。羽の一枚一枚は刀と化している。メイシアにも鷹刀一族の紋章だと、すぐに分かった。
後ろにいたミンウェイが前に出て、扉に触れた。
次の瞬間、彫刻の鷹の眼球が動いた。そして、ミンウェイの瞳を捉える。
<ミンウェイ様ですね>
流暢な女声の合成ボイスが流れた。
作品名:第一章 桜の降る日に 作家名:NaN