ヒトサシユビの森 5.ヒトサシユビ
突然、安田が署長室に呼ばれた。溝端いぶき殺害案件の捜査から外すという理不尽な通達だった。安田は驚きとともに怒りにも似た感情を抑えられなかった。
「どうしてですか、署長!」
「溝端かざねは逮捕された。今、取り調べ中だ。だから・・・」
「まだ証拠固めも済んでいない。捜査本部の看板は立ったままです。まだまだやることがあります」
「いや、君のような優秀な人材はもう必要ないだろう。他の案件に尽力してもらいたい。そういうことだ」
「この事件はなんかおかしい。裏がありそうなんです」
「安田くん、確かに白骨遺体の発見は君のお手柄だった。でもね君、現場の指揮系統を無視して他の地域を捜索したそうじゃないか。組織としてそういうことやってもらっちゃ、困るんだよね。たとえ結果オーライだとしても・・・」
「”上”がそう言ってるんですか?」
「”上”とか、そういうことじゃない。君の将来のことを考えてだな・・・」
「県警の上層部の考えですか?」
安田は厳しく署長に詰め寄った。署長はやや狼狽えながら、絞りだすように「そうだ」と答えた。
「納得いきません、署長」
「県警本部からの指示だ」
「撤回させてください」
安田と署長が問答を繰り返していると、署長のデスクの電話が鳴った。署長は用件を聞きとり、安田に言った。
「近くの用水路で死体が発見された。安田くん、そちらを担当してくれないか」
安田は唇を噛んで、怒りを呑みこんだ。
安田は徒歩で現場に駆けつけた。
鑑識作業があらかた終わり、遺体が用水路から引きあげられるところだった。
現場は石束警察署から程近い田圃を横切る農道である。
深めの用水路が農道に沿って流れている。
現場を取り仕切っていたのは、ベテランの鑑識官だった。
「運転免許証が財布の中にあった。茂木慎平38歳」
「茂木慎平? たしか、記者会見で記者の質問に答えていた人ですよね」
「ああ、そうだな」
「自殺ですか?」
「まだわからん」
遺体が救急車に運ばれる途中、遺体のポケットから一通の封筒が地面に落ちた。
遺書かもしれない。安田はゴム手袋をはめて封筒の中身を開いた。
便箋に手書きで長文がしたためられていた。
『私が犯した罪をあらいざらい告白します』という書き出しから始まった手書きの上申書は、5年前におきた溝端さちや失踪事件の全貌を語る内容だった。
蛭間、坂口、玉井、三人の仲間と共謀してさちやを拉致し、山中に埋めたこと。そして2枚目の便箋には現在、溝端いぶきが行方不明になっている件に関して虚偽の遺体検案報告をしたことへの謝罪と事実関係が記されており、『いぶきちゃんは天狗岳山麓の小屋に今もいます。早く救出しないと命が危ない。小屋は慣れた者でないと辿りつけないくらいわかりずらい場所にある。その上、そこまでのルートが非常に複雑で危険なので、私が案内します』と結ばれていた。
驚くべき内容に安田はしばし言葉を失った。
上申書の文面を何度も読み返した。
”溝端いぶきは生きているのか?”
”白骨遺体はさちやちゃんだったのか?”
”いぶきちゃんの命が危ないとはどういうことなのか?”
小屋に案内すると書いてあるが、小屋の場所は示されていない。案内人たる茂木は、もうその役目を果たせない。
”天狗岳山麓の小屋”
小屋といえば、山本亮太が手がかりとして言っていた言葉だ。
鑑識官が新たな情報を安田に提供した。
「財布の中に猟友会の登録証がありました。茂木も猟友会の会員だったようですね。たしか坂口土建の坂口が猟友会の幹事を務めていたと記憶しております」
猟友会仲間の茂木、坂口。坂口土建は亮太が働いている会社だ。
いったいどうなっているんだ?
安田は携帯電話を取りだし亮太に連絡を試みた。亮太を呼び出すものの、電話はつながらない。安田は諦めて鑑識官に言い残した。
「坂口土建に行ってきます」
作品名:ヒトサシユビの森 5.ヒトサシユビ 作家名:JAY-TA