ヒトサシユビの森 5.ヒトサシユビ
蛭間は麻袋をクラウンのトランクに押しこんだ。
痛む膝をかばいながら、エンジンをかけると、林道を猛スピードで突っ走った。
県道に出たところで、蛭間はアクセルを緩めた。
夜明けまでに日本海に着けばいい。ロングドライブになる。
蛭間は法定速度を若干上回る程度の速さで深夜の県道を慎重に運転した。
山肌が左右から迫り、短いトンネルにさしかかった。
トンネルに入ると不意に子どもの無邪気な笑い声がした。
幾重にも反響する子どもの笑い声が蛭間の耳にはっきりと聞こえた。
蛭間がバックミラーを覗くと、後部座席に上半身裸の子どもが座っているのが見えた。
瞳孔が開いて血の気のない顔貌をしていた。
フロントガラスの表面に小さな手の跡が張りつく。
それは瞬く間にフロントガラス全面を覆い尽くした。
だが蛭間は動じなかった。
こんなものは弱気になった心が見せるマヤカシだ。ただの幻だ。すぐ消える。
蛭間はオカルト的なものは一切受け付けないタイプだった。
実際、蛭間の思った通り、トンネルを抜けると、笑い声も裸の子どもも手の跡もすべて消えていた。
しかしハイビームのヘッドライトは前方の道路上に成人女性らしき人影をとらえた。
あれは幽霊か? それともまだしつこく生きている溝端かざねか?
蛭間はいったんブレーキをかけ、クラウンを停車させた。
どっちでもいい。
蛭間はアクセルを踏みこんだ。
コントロールできる限界のスピードまで速度をあげた。
女性の姿がどんどん大きくなる。
裸足の足で地面を踏みしめ、道路を塞ぐように立っている。
衣服は血と泥にまみれ、ところどころカギ裂きになってボロボロだ。
顔は乱れた髪に隠れがちだが、大きく見開いたふたつの眼が、迫りくるヘッドライトを瞬きひとつせず、睨みつけている。
かざねだ。かざねは言葉にならない大声を発して、蛭間を指さした。
女ひとり跳ね飛ばしても車にそんなにダメージはあるまい。
安易に考えていた蛭間だったが、彼は知らなかった。
かざねの前方十数メートルの道路上、ちょうど運転手の目に高さの空中に、ある小さな物体が微動だにせず留まっていることを。
その物体はかざねにも見えなかっただろう。
ただ命に代えてでも、いぶきを救いだす。
その強い思念がかざねの全身に満ちて具現化したのかもしれない。
かざねを轢き殺すことに躊躇のない蛭間は、アクセルを全開にしてかざねに襲いかかった。
だがかざねの直前に達したとき、クラウンのフロントガラスにヒビが入った。
次の瞬間、その物体は蛭間の左目の神経を切り裂き、左脳を貫通して後頭部の頭蓋に小さな穴を穿った。
その物体が襲撃したわけではない。
その物体はその場から1ミリも動いてはいない。蛭間自らがそこに突っ込んで招いた結果である。
突然の激痛に、蛭間は無意識のうちにハンドルを回した。
クラウンは猛烈なスピードで側壁に激突した。
その反動でクラウンはかざねの頭上を飛び越えて、ガードレール側にはじきとばされた。
衝撃音とともにガードレールを破壊したクラウンは、鼻先を谷底に向け停車した。
前輪は回転の惰性を続けたまま宙に浮いた。
崖縁に接地したシャーシがかろうじてバランスを保ち転落を免れている。
しかし後輪も浮きかげんで、いつ落下してもおかしくない状態だ。
かざねはクラウンに駆け寄りトランクをこじ開けた。
トランクの中から麻袋に入れられたままのいぶきを救いだし、袋の外からいぶきの体温のぬくもりを確かめた。
トランクのハッチを閉めた直後、ガラスが砕ける音がした。運転席の窓ガラスが粉々になって、谷底に落ちていく。
蛭間が車載用の脱出ハンマーで窓ガラスを割ったのだ。
運転席の窓から蛭間が這い出してくるのが見えた。
額と目からの出血で顔じゅう血まみれだ。屋根によじ登りながらかざねに向かって手を伸ばしている。蛭間が動くたびに、クラウンは揺れながら前傾の角度を深めた。崖縁の接地面もボロボロと崩れ落ちる。蛭間は屋根にしがみつき、今にもかざねに飛びかからんばかりだった。宙に浮いた後輪がゆらゆらと浮き沈みを繰り返す。
かざねは、いぶきを胸に抱いたまま、クラウンのリアバンパーに足をかけた。
「死ねぇぇ!!!」
と叫びながら、クラウンをありったけの力で虚空に蹴りだした。
隻眼の蛭間の顔が歪んだ。クラウンは蛭間もろとも、谷底を滑り落ちていった。
谷底に激突すると爆発音が響き、白い炎が閃いた。
その後は小さな爆発音を繰り返し、オレンジ色の炎とともにもうもうとした黒い煙を立ち昇らせた。
かざねは麻袋の紐をほどいた。
いぶきの頭が見え、顔が見えた。やや衰弱しているようだったが、4歳のいぶきに間違いなかった。
右手に握り飯大の包帯が巻かれている以外、大きなケガは見当たらない。
かざねは、いぶきの名前を呼び、抱きしめた。
谷底からの黒煙は道路上にもせりあがってきた。
かざねの周囲にも広がり、視界を妨げるようになった。
ふと人の声がした。側壁の山のほうからだ。
その声はガシャガシャと音を立てて、道路に落ちてきた。亮太だった。
ワイヤーの切れ端が残る右足と、トラばさみに噛まれた左足、両方の足を引きずりながら、亮太はかざねの名を呼んだ。
「亮太?」
黒煙の切れ目に現れた亮太は、かざねといぶきの無事な姿を見ると、その場に突っ伏して気を失った。
「亮太!」
かざねが亮太に駆け寄ったとき、谷底で再び大きな爆発音と火焔があがった。
爆発音とともに獣が吠えるような恐ろしい声が谷から迫ってきた。
煤にまみれたガードレールに幾筋も血が滴り落ちた。
人とも獣ともつかない声はかざねの耳元に迫った。
かざねが振り返ると、黒煙の霞のなか、身体から異臭を放ち顔面焼けただれた蛭間が、ガードレールを背に仁王立ちしていた。
そして、かざねに向かってハンマーを振りあげたのだ。
かざねがいぶきを庇い、うずくまったまさにその時、山間に一発の銃声が轟いた。
銃弾が蛭間の眉間を貫いた。
蛭間は口からどす黒い血を流し、ハンマーを振りあげた形のまま、頭から谷底に墜落していった。
かざねは銃弾が発射された方向を見た。
だが漂う黒煙に邪魔されてよく見えない。
やがて黒煙の隙間から、はっきりと男の姿を見ることができた。安田刑事だった。
安田は銃を構えたまま、しばらく動かなかった。
「安田さん」
かざねが声をかけても、一点をじっと見つめたまま表情が固まっていた。
パトカーのサイレン音が近づいてきて、ようやく目だけ動かすことができた安田は、かざねとアイコンタクトを交わした。
かざねはもう一度いぶきを抱きあげた。
作品名:ヒトサシユビの森 5.ヒトサシユビ 作家名:JAY-TA