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ヒトサシユビの森 5.ヒトサシユビ

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蛭間が小屋を出ると、ひとりの女性が森を背にして立っていた。裸足のかざねであった。
かざねは麻袋を担いだ蛭間を鋭く睨みつけた。
「溝端かざね、よくここまで来れたな」
「あんたに呼び捨てにされる筋合いはない!」
「そうかい。それは悪かったな、かざねちゃん」
「その子を返せ!」
「その子って誰のことだ? いぶきちゃんはお前が殺したと世間は言ってるぞ」
蛭間はそう言うと猟銃を壁に立てかけた。
「その子を返しなさい。あんたらの悪事はとうにバレてる」
「お前の言うことなんか誰が信用するか」
「警察を呼んである。もう逃げられないわ」
安田に連絡できなかったかざねの言葉はハッタリだった。
だが蛭間は、石束署に勾留中のかざねが逃走してここに来たなら、いずれ警察もやってくるのではないか、と深読みした。
「それは、怖いな。じゃあこうしよう」
蛭間は麻袋の口紐を軒先の大きなフックのひとつに引っ掛けた。
「お前は子どもを助ける。俺は逃げる。どうだ?」
かざねは答えなかった。
蛭間の言うことなど到底信用できない。なにか企んでるに違いない。
だが、どうしてなんだろう。
こんな山奥の山小屋になんか知るはずもないのに、前に来た憶えがある。
かざねは既視感を覚え、神経が波立った。
蛭間は後ろにさがりながら、反転して小屋の陰に姿を消した。波立った神経が静まるのをかざねは待った。しかし、反転した際に蛭間が壁際の猟銃を素早く拾いあげた瞬間を、かざねは麻袋のほうに気を奪われ見過ごしてしまった。
かざねは麻袋に駆け寄った。麻袋をフックから外すのに手間取った。
いぶきの名前を呼びながら、ようやく麻袋を地面におろしたときだ。
かざねは背後から痛烈な打撃を脇腹に喰らった。
蛭間が力まかせに振り回した猟銃の銃身がかざねの脇腹に激しくヒットしたのだ。
かざねは脇腹を抑え身体をくの字に折り曲げた。
かざねが痛みを堪えて蛭間を振り返ると、今度はかざねの顔面を猟銃のグリップが襲った。
あごの骨が砕けんばかりの痛みにかざねは、屋根の端から吊るされた2本の鉄の鎖に絡まるようにして地面に倒れた。
そして口から血の塊を吐き出した。蛭間は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、かざねを見おろした。
かざねは二本の鎖に絡まったまま、蛭間を睨んだ。
「どうだ、かざね。思いだしたか?」
鉄の鎖がかざねのうなじに触れた。その質感、鎖どうしが触れあう金属音。
そして、周囲の漂うかすかな獣の匂い。木の匂い。土の感触。
かざねは思いだした。
祭りの夜、頭に布を被せられ拉致されて注射を打たれた。
車で運ばれ、目隠しされたまま静かな場所に連れてこられた。
あの夜、裸にされ、鎖に巻かれ、吊され、凌辱された・・・。それがどこだったのかも、誰に凌辱されたかもわからないまま・・・。
「蛭間、お前・・・」
蛭間に突っかかろうとしたかざねだが、痛みのせいで立ち上がることができなかった。
「思いだしたようだな。なんでこんなことになったか知りたいだろ、かざね。教えてやろう、冥途の土産だ。実は俺たちの仲間のひとりがお前に本気で惚れてな。どうしたらモノにできるか俺のところに相談にきた。ま、正面からぶち当たれとアドバイスしてやったんだが、これが見事玉砕。そのときお前、あいつに随分とひどいことを言ったんだってな。それが許せないって相談にきたんで、あの祭りの夜の出来事になった。それはそれでお遊びみたいなもんだから、気にもしてなかったんだが、何年かしたある日かざねに4つになる子どもがいて、その父親が誰だかわからないという噂を耳にしてしまった。計算すると祭りの夜かもしれない、でも違うかもしれない、ってなった。それでトラブルの芽は早めに摘んでおこうという俺の主義でな。というわけで、ガキには消えてもらった。同時にお前を子殺しの犯人に仕立てようとしたが、これは失敗だった。でもお前は町を出てくれてホッとしたよ。それがなんでわざわざこの町にのこのこ舞い戻ってきやかったんだ。いいか、かざね。俺たちは悪くない。この一件は全部お前のせいだ。お前がクソ女だからこうなっちまんたんだよ!」
かざねは怒りにうち震えた。レイプ事件を隠すために子どもを殺したこと、それが許せなかった。さちやの身に起きたこと、いぶきがされた仕打ち、すべてが許せなかった。
かざねは鎖のしがみついて立ち上がった。
「何をする気だ、かざね。これが見えないか」
蛭間は猟銃をかざねに向けた。
「どっちが先だ?」そう言うと、今度はその銃先を麻袋に向けた。
ぐわあぁぁぁという叫び声とともにかざねは蛭間に飛びかかった。
隠し持っていたカマを振りあげた。
銃を持つ蛭間の腕を切り落としてやろうと狙ったが、体を交わされた。
しかし振りおろしたカマは、蛭間の膝上の肉を深く抉った。蛭間は膝から崩れ落ちた。
苦悶の表情を浮かべ体勢を崩しながらも、蛭間はかざねのスカートの裾を掴んで離さない。
かざねは渾身の力をこめて、蛭間の顔面に蹴りを見舞った。蛭間は血反吐を吐いて、スカートの裾を握る手を緩めた。
かざねは麻袋に駆け寄り抱き上げた。
そのまま蛭間から逃れようと、麻袋を抱いたまま走った。
十分逃げ切れると思ったそのとき、背後で銃声がした。
銃弾がかざねの右肩をかすめ、乱れる髪を貫通し、かざねの頬に血しぶきが飛び散った。
たとえ撃たれてもこの麻袋だけは放さないと、執念にも似た思いで麻袋を抱きしめたが、手に力が入らなくなった。
無念にも麻袋はかざねの手から離れ、地面に落ちた。
かざね自身も前のめりの突っ伏した。
耳なりに耐え肩からの出血を抑えながら振り向くと、蛭間が猟銃を構えたまま足を引きずって近づいてくる。
かざねは麻袋を背に立ちはだかった。蛭間はアゴをさすりながら、かざねに叫んだ。
「ちくしょう、邪魔ばかりしやがって」
至近距離まで近づいて蛭間は、かざねを狙って猟銃の引き金を引いた。
しかし弾丸は発射されない。何度か引き金を引いたが、カシャカシャと乾いた音だけが鳴った。蛭間はイラついた表情で猟銃を投げ捨てた。
かざねはここぞとばかりに再び蛭間に殴りかかった。
蛭間はかざねの放った拳を交わし、かざねの背後に回りこむと、太い腕でかざねの喉元を絞めつけた。
「お前はここで首つり自殺で発見される。それでどうだ?」
かざねは答えられない。歯を食いしばり、蛭間の裂けた膝上の傷口に爪を立てた。
うぎゃぁ!と吠え蛭間はかざねを振り回すように突き飛ばした。
かざねの姿が蛭間の視界から消えた。かざねの短い悲鳴とともに、バラバラと小石が滑り落ちていく音を蛭間は聞いた。草むらがぷっつりと途切れている地面の端に立ち、蛭間は崖下を覗きこんだ。
ほぼ垂直に切りたった崖地は高さにして七、八メートルはあるだろうか。その底でかざねはうつ伏せに倒れていた。
蛭間が見おろしている間、かざねはピクリとも動かなかった。
生死は定かでないが、野獣が腹をすかしている地域だ。どの道助からない。
蛭間はワイシャツの袖を歯で裂いた。膝の傷口に巻いて止血すると、麻袋を肩に乗せ山を下っていった。