ZERO
その時にも僕はずっと、自然公園の方へと意識が向いて、どうしても気になってしまうのを抑えられなかった。何かとても不吉な予感が体をざわざわと粟立たせていたのだった。それでも今はただ、佐山さんをバスの中で必死に元気づけることしかできなかった。
後で考えてみれば、もう僕らはその時、事実を予感していたのかもしれない。その姿を見なくても、何が起こったのか、何が起ころうとしているかは、その心に、体に直接感じていたのかもしれない。
でも、その時にはもう、僕らにはどうすることもできなかったのだ。
その夜は結局寝付けずに、ベッドに腰を下ろして窓の外をじっと見つめていた。そこに降りしきる雨が何だか自分の心に打ち付けているようで、妙に体が冷えて仕方がなかったのだ。そんな中、ずっとあの樹のことが気になっていて、彼の姿ばかりが目の前に浮かんでくるのだった。
そうしてじっと身を縮めて夜明けが来るのを待ちながら、朝が来る頃に空は晴れ渡って、僕は気付けば制服に着替えて、まだ薄暗い中から外へと駆け出していた。
佐山さんにメールを送り、良かったら、朝、あの場所に来て、と誘うと、僕はバスに乗ってあの自然公園を目指した。嘘みたいに晴れ渡った空が頭上に広がっていて、僕は反対に、それが心を落ち着かなくさせているような気がした。
ようやく自然公園の前の、バス停に到着すると、僕は公園の奥を目指して走り続けた。理由のない焦燥感が体を焼き尽くしそうな、そんな息苦しさを僕の心は感じていたのだった。この苦しさは走っていることによるものだけじゃないはずだ。
僕はそんな予感を抱えたまま、やがてその茂みを掻き分けて開けた丘の上へと出た。そして、その場に立ち尽くし、息を呑み込んで、ふっと体の支えを失った。
――そこには、一本の大木の亡骸があった。
脳天から引き裂かれて左右に倒れ落ち、生々しい裂け目を見せていた。あの大きな枝が地面の上で広がって、その力強い姿を見せることはもうなかったのだ。
僕は崩れ落ちて地面に手を付き、口を開いたまま顎を軋ませた。どうして……どうして、彼がこんな姿になっているんだ? 嘘だろ? ……嘘だ。
僕の額から伝い落ちる汗が地面へと吸い込まれていったその瞬間、ふと背後で茂みが揺れる音がした。そっと誰かが隣に立つ気配があったのだ。そして、何か掠れた悲鳴を上げたのだった。
「どうして……どうしてそんな、」
僕がつぶやくと、その影が覆い被さってきて、肩に手を置いた。そして、佐山さんが身を乗り出してきて言った。
「落ち着いて、時田君――」
「こんなのって……こんなのってないだろ、」
僕がもう一度立ち上がり、彼へと近づいてそうつぶやくと、佐山さんは「彼女はね……」と言葉を零した。
「彼女はね……精一杯生きて、旅立っていったのよ。だから、今は泣かないでね……彼女をただ見守ってあげて……」
僕は何か言葉にならない叫び声を上げながら、そこに跪いて唸った。佐山さんはそっと僕の腕を包み込み、俯きながら、微かに震えていた。
彼は旅立って行ってしまったのだ。僕らの知らないところで、天から大きな矢で引き裂かれて倒れ落ち、やがて地球へと帰っていったのだ。
僕がずっとずっと彼の元で過ごした時間が、今、零れ落ちて、彼と交わした言葉が宙へと浮き上がり、空へと消えて行った。
それは本当に僕らにとって残酷な光景だった。けれどきっと、彼にとってはそうではないのだろう。彼はこの丘で、懸命に生を謳歌し、幸せを胸にその運命を受け止めたのだ。それはきっと僕らにとっても、受け入れるべき事実なのだろう。
だから、僕は今彼の為に泣くことしかできない。同じく隣で泣き声を上げている佐山さんとしっかりと手を握り合ったまま、僕らは子供に立ち還ったように喉を引き裂くような叫び声を空へと突き上げていった。
彼はもういないけれど、彼が残したものは計り知れなかった。僕と彼女が繋がる奇跡を、彼が与えてくれたのだった。それだけを胸に、僕らはこの場所で祈りを捧げて、奇跡を抱いて、軌跡を描き、生きていくべきなのだろう。
だから、僕は彼の亡骸に歩み寄って、そっと抱きしめた。その温もりを感じていられるだけで、僕は彼の残り香をこの胸に、泣き続けることができるのかもしれなかった。
*
そうして月日は流れていき、僕達は高校三年生になった。受験勉強が本格的に始まり、僕らは昔のように毎日会って話すこともなくなったけれど、それでも時間がある時には、校舎裏の花壇で、談笑することがあった。
佐山さんは園芸部に属していて、ひっそりと校舎裏の片隅に色取り取りの花を咲かせているのだった。僕は今までその綺麗な色彩に見惚れることがあったので、佐山さんのそういう真摯な姿勢に、本当に尊敬の気持ちを抱いてしまう程だった。
彼女はその日の放課後、花壇の手入れをしていたけれど、その横で僕は、作業を手伝いながら、もうあれから一年が経つね、とふと零した。
「うん、そうだね。長いようでとても短くも感じられるし……時田君とこうして友達になれて本当に良かったよ」
彼女はそう言って、掌をパンパンと叩きながら、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、渡り廊下の方へ行こうか」
「ああ、うん。……行こう」
僕らは並んで歩き出しながら、お互いに押し黙ってしまった。この関係はどういったらいいのか、本当に中途半端なのだけれど、佐山さんに好きな人がいるのがわかっているので、なかなか行動に踏み切れなかった。
ゆっくりとその場所へと近づきながら、僕は思い切ってそのことに言及することにした。
「あのさ……好きな人には、もう想いを伝えたの?」
彼女はすぐには反応しなかった。でも、短く息を吸う声が聞こえて、すぐに振り向いて見ると、いつもの満面の笑顔が浮かんでいたのだ。
「まだ、言っていないんだ……でも、やっと決心ついたよ」
僕の心臓が止まりかけて、胸に見えない刃が深く突き刺さるのがわかった。僕はそうなんだ、と零しながら、ぐっと拳を握ってしまうのを抑えられなかったのだった。
「私、その人に思い切って言おうと思うんだ」
「そう、良かったよ。これで僕も安心できるからさ」
彼女は首を振って空へと視線を向けながら、どこか吹っ切れたような表情を見せた。
「あの子が私達を引き合わせてくれたんでしょ? だから、私もこの想いを大切にしたいって深く思えたんだ。せっかくあの子が育んでくれたこの気持ちを、無駄にはしたくないからさ。だから、私は思い切って言うよ」
彼女は渡り廊下の横の花壇へと歩み寄り、そこに置いてあった小さな植木鉢をそっと見下ろした。そして目を瞠り、その途端に駆け寄った。
その植木鉢から覗く、小さな命……ふわりと開かれた小さな葉が、手の平を広げて背伸びをしているような――か弱い、本当に願ってもない命だったのだ。
僕と佐山さんは顔を見合わせて硬直していたけれど、気付いた時には手を取り合い、飛び跳ねていた。くるくると回りながら、「芽が出た!」とはしゃいだ声を上げてしまった。