ZERO
僕はそんなのいいだろ、と彼女の頭をつかんで思い切り突き放しながら、歩き出そうとした。けれど、そこで向こうから、佐山さんが歩いてくるのがわかった。僕らを見つめて笑いながら横を通り過ぎ、軽く会釈してきたのだ。
僕は何だか複雑な気分で頭を下げ返して、妹の腕を引き剥がして佐山さんの後を追おうとする。
「ねえ、今の人……誰?」
早苗が興味津々といった様子で身を乗り出しながら、佐山さんを見つめてそう言う。
「ただのクラスメイトだよ。少なくとも、お前よりかは真面目で容姿も端麗だな」
そう言うと、思い切り拳で頭をぶん殴られた。
「兄貴の彼女かと思った。兄貴の、好きそうなタイプだね」
「何言ってるんだよ、そんなのどうでもいいだろ……さっさと教室に帰れ」
彼女はまだぶつぶつ言っていたけれど、やがて「兄貴、頑張ってね!」と廊下に響き渡るほどの大きな声で叫んで、けらけら笑いながら、階段へと消えて行った。
「あの、くそったれ……」
僕は肩をすくめながら、その場を後にする。
確かに僕は佐山さんを意識していない訳ではなかったけれど、それ以前に佐山さんには好きな人がいるし、容姿もすごくいいので男子からの人気も高かった。そんな人が振り向くとは、万が一にも思えなかったのだ。
その日の放課後、いつものように樹の下へと向かうと、やはり佐山さんが僕を待っていた。彼女は掌を振って僕を促して、手作りらしきお菓子を差し出してきた。
「佐山さん、今日も早いね。部活はなかったの?」
「うん、副部長に任せて、抜け出してきちゃった」
彼女はそう言って小さく舌を出して笑う。
「それより……時田君の妹さんすごく可愛いわね。お兄ちゃんっ子なんだね!」
僕は危うく佐山さんが焼いたクッキーを喉に詰まらせかけた。
「なんであいつが妹だって知ってるの?」
すると佐山さんは、少しだけ視線を伏せて、友達に聞いたのよ、と笑った。
「仲の良い妹さんがいると聞いて、いい目の保養になったわ。素晴らしい、お兄さんしてるわね」
彼女はそんなことを言って悪戯っぽく微笑み、自分もクッキーを一つ口に運んだ。
「あいつは五月蠅いだけで可愛くなんてないよ。佐山さんが妹だったら、もっと可愛がっていただろうけど」
「わ、私が妹だったら? そうしたら、すごくお兄ちゃんっ子になっていただろうなあ……」
佐山さんははにかんだようにそう笑って、顔を丘の先、ずっと空の向こうへと向けて口元を緩めた。
「こうしてこっそり会ってると、何だか親友ができたみたいで嬉しいんだ。佐山さんのこともいっぱいわかったし……そういえばその後、どうなったの?」
僕が文庫本を取り出してそう問いかけると、佐山さんがぶっとクッキーを噴き出した。
「ど、どうしたの?」
「いや、別に進展はないんだけど……なかなか勇気出せなくて、いつも遠目に見てるだけで……」
彼女はそう言って少し赤くなった顔を俯かせた。僕は彼女のその横顔を見ながら、少しだけその相手に嫉妬してしまう。彼女がこんなにも想っているんだから、少しは気付いてやればいいものを……そいつはすごく鈍感なんだな、と思う。
彼女はふと僕へと視線を向けて、じっとその瞳を覗き込んできた。そしてふっと笑い、小さく首を振った。
「今はただ、彼を想い続けている自分がすごく好きだから。このままでもいいかなって……」
「そう、なんだ。僕もできる限り応援するから。何か相談に乗ったり手伝って欲しいことがあったら、なんでも言ってね。なんかそいつが羨ましいな、ホント」
思わずそんなことを言ってしまうと、彼女は耳を赤くして俯いてしまった。
「うん、今のままでも本当に支えてもらってるから……」
「そう、それは良かった。これからもたまにこの樹の下に来てさ、一緒に話したりできたらいいな。佐山さんとは色々と話したいことがあってさ」
佐山さんは口元を綻ばせて、うなずく。
「うん……卒業まで、こうやって話せたらいいね」
「この樹がある限り、僕らはずっと友達のままだよ。同志なんだから」
彼女は頭を幹へとぴったり付けて、この樹が、とつぶやいた。
「この樹が、色々な幸せを運んでくれるのよ、きっと」
「彼はたぶん、それだけのエネルギーを持ってるんだよ」
「彼? 彼女じゃなくて? この樹は女の子だよ」
「いやいや、こいつは男だよ。僕が持ってきた写真集に、鼻の下伸ばしてたもん」
馬鹿、と佐山さんは引き攣った笑みで僕の後頭部を叩いた。でも、その手つきは優しくて、僕は殴られてもがっかりしなかった。
「本当に、ほのぼのとしてるな、ここは」
僕はそうつぶやき、頭上の大きな自然の傘を振り仰いで、微笑み、そして大きく息を吐いた。
僕はこうした日々が、ずっと――少なくとも、あと一年は続いていくものだと思っていた。当然そのはずだろう。でも、そんな期待は僕らの独りよがりな願望でしかなかったのだ。彼……彼女は少しずつ、その来る時までに、最後の生の実感を噛み締めて、その場所に佇んでいたのだ。
僕らは結局それに気付かず、彼の最後の囁きに耳を傾けることもせずにその日を迎えてしまった。もう僕らにできることは何もなかった。あるのはただ、彼の変わり果てた姿を見て慟哭し、頭を掻き毟り、地面に蹲ることだけだった。
それでも、彼はきっと僕らを見下ろして微笑んでいることだろう。それが彼の唯一の務めだというように……。
*
その日、台風が近づいてきていた。大雨の日々が続き、僕は佐山さんとあの樹の下で会うことも少なくなっていた。早く彼の元に向かって色々な話をしたいと思うのだけれど、なかなか天気に恵まれなかった。
ただ前よりは、クラスで佐山さんと話す機会が増えたので、お互いに休み時間に話したりなど、それなりに楽しい毎日を送れていたのだ。
けれどその日だけは、あまりに強い大雨が降り注いで、生徒達は午前中の授業だけで早くも下校することになった。おまけに雷も鳴り響き、僕と佐山さんは下駄箱で一緒に歩きながら、何だかその薄暗い校舎を見つめる中、言葉も少なかった。
「雷、怖いよね。早く止んで、あの場所に行きたいんだけど」
佐山さんは扉の窓の外をじっと見つめながら、そうどこか沈んだ顔でつぶやく。
その時一瞬、辺りが光で照らされたのがわかった。間髪入れずに、物凄い轟音が校舎を包み込み、佐山さんが大きく悲鳴を上げた。
気付けば僕らは身を寄せて息を殺して、ただ震えていた。
佐山さんは僕の胸に肩を寄せて、ただ俯いていた。僕も彼女の肩に手を置いて硬直してしまう。
「あ……ご、ごめん」
佐山さんは至近距離で見つめ合うと、慌てて身を離して、どこか赤い顔を反らしてしまった。
僕は小さくうなずき、自然公園の方をじっと見つめた。学校の敷地を囲む柵の向こうに、豊かな自然の姿が大きく広がっていたけれど、そこに漂う空気は薄暗い闇に覆われている気がして、背筋が冷たくなった。
「今、かなり近いところに落ちたよね。なんか怖いよ、ホントに」
佐山さんは僕の腕を握って手先を震わせて、そこに佇んでいた。僕は彼女を促して、一緒に下校することにしたのだ。