spirit come home...
広場の楽しげな雰囲気に呑まれて、僕は長い事彼女と踊っていた。フルートの透き通るような音が宙を流れて、太鼓の軽快なリズムが僕の足元を跳ね回り、アコーディオンの暢気で心地良い音が僕の口元を緩ませた。
そうしてすっかり踊り疲れると、彼女はベンチへと僕を促し、そこに二人並んで座った。そうして彼女はそっと僕の額をマントの裾で拭ってくれ、僕は目の前の情景を見上げて、その不思議な広場の風景を眺めていた。
そこで、誰かが近づいてくる気配がしてそっと振り向くと、そこには一人の背の高い男が立っていた。着ている洋服はどれも煤だらけで、ところどころ破けており、そして見るからにどこか軽薄そうな雰囲気が彼の周囲には漂っていた。
そして、彼は僕らの前に立つと、少女へと振り向いて、「こいつが新しく入った奴か?」と言った。少女はうなずき、僕の頭を撫でながら言葉を返す。
「とても怖い思いをしてここに来たようなの。まだこの世界のことも理解していないし、とても混乱しているわ」
「へえ、わかったよ。こんなおチビちゃんが新入りとは……まあ、とりあえずゆっくりしていれば慣れてくるだろうよ。俺はあの居酒屋で待ってるから、後で来いよ」
「ミリル」
少女が呼び止めると、そのミリルと呼ばれた男はこちらに振り向いて、なんだ? と言った。
「この子と一緒に、少し色んなところを回ってみるから。少し遅くなるかもしれない。気長に待ってて」
すると、ミリルは「はっ!」と笑い、片手をひらひらさせながら歩いていった。僕は身を縮めてその変な男の背中を見つめながら、少女へと振り向き、言った。
「あの人は?」
「ミリルよ。私がこの世界にやってきた時からの友人で……長い付き合いになるわ」
そこまで語ると、少女はそっとこちらに体を向けて僕の顔をじっと見つめながら言った。
「この世界はね、どんな願いも叶えてくれる楽園なのよ」
「楽園?」
僕がそう震えながら返すと、少女はうなずいて遠くを見つめながら言った。
「その人が何かを願ったら、世界が全てを叶えてくれるの。ここで叶わない夢なんて何もないのよ」
僕は彼女の言葉が何を指し、どんな重要性を持っているのか、全くわからなかったが、ただそれだけをつぶやいた。
「本当に何でも叶うの?」
「ええ、何でも叶うわ。あなたが求めているものは何?」
彼女がそう首を傾げて聞くと、僕はしばらく地面へと視線を向けて考えた。やがて僕はそっと顔を上げて、彼女の手を握って言った。
「僕は本を読みたいんだ」
「本?」
僕はうなずき、ページを捲る真似をして言った。
「僕が今まで読んだことがなかったような、本当に感動できる傑作を読んでみたい。僕はそれだけをただ望むから」
彼女は僕の手を擦り、そして叩いて「もうその願いは叶ったわ」と言った。
「叶った、ってどういうこと?」
「もうその場所がこの世界に現れたの。願うだけで、この世界の中でそれは実現するのよ」
そう言って彼女は立ち上がり、ランプを手に取りながら、僕へと振り向いて言った。
「行きましょう。私がそこまで案内するわ」
僕は広場がある街の中をずっと少女について歩いていき、そして人通りがなくなると、裏通りへと辿り着いた。少女はやがてどこか黒ずんだ石畳の道の上で立ち止まった。
そして、じっと目の前の建物を見つめた。そこはかなり年季がかった建物だったが、看板には何か文字が書かれていたようだけれど、もう跡形もなく消えていた。そして、白い壁面にはひびが目立ち、入り口のドアは開け放たれていた。
どうやらそこは古本屋らしかった。少女はそっと僕の手を引いて中に入り、隅にあった机の側の椅子に座った。僕を手招きして、辺りを見回しながら言った。
「ここにある本を好きなだけ読んでいいのよ」
僕は店の中央で立ち尽くし、周りを取り囲んでいるたくさんの本棚を見つめ、呆然とするしかなかった。木の棚にぎっしりと本が詰め込まれており、色取り取りの表紙が並んでいた。
僕は少女へと再び視線を向け、読んでいいのか、と確認した。少女はにっこりと微笑み、金髪を揺らせながらうなずいてみせた。
僕は叫び声を上げながら本棚へと駆け寄り、そして一冊を抜き出してじっと見つめた。そこには題名も著者名も何も書かれていなかったが、本を開くと確かにそこには文字が綴られていた。
僕はしばらく読み続けたが、その瞬間周囲の景色が消え、物語の世界が目の前に浮かんで、それに身を浸すことができた。ただただその素晴らしい作品を前にして涙が溢れ続けた。
本のページを捲り、ずっとずっと僕は本にかじりついて読み続けていた。やがて最後の一ページを読み終えると、僕はその本を胸に抱き、座り込んでしまった。
涙が溢れてそれは頬を伝い、本の表紙を濡らした。そこで少女が椅子から立ち上がり、こちらへと近づいてきた。そして、僕の肩に手を置いて言った。
「この古書店にはね、世界を訪れたたくさんの人々の想いが詰まっているの。名前もわからない人々がその物語を世界に残したいと思っただけで、本が現れるの」
僕は少女の笑顔を見上げ、本をぎゅっと握り締めながら嗚咽し続けた。
「僕はこんな作品、今まで読んだことなかったよ。これは誰にでも書ける訳じゃない。この本は、間違いなく傑作だよ」
僕が本を見つめて熱に浮かされたような声でつぶやくと、少女はそっと僕の背中に顔を擦り寄せて、言った。
「この世界には何でも欲しい物が揃っているのよ。この世界にいれば、いつまでも満ち足りた気分で毎日を過ごすことができるの。あなたもこれから、この世界で、私と一緒に自分の夢を実現できるわ」
「本当に何でも叶うの?」
そうよ、と少女はうなずき、僕を立ち上がらせて涙を拭ってくれる。僕の手から本を受け取り、棚へと仕舞って手を引き、言った。
「そろそろミリルが待っている頃だから酒場に行きましょう。この世界は、本当に楽しいことで溢れているから、彼がそれを教えてくれるわ」
僕は彼女の後に続いて歩き始めるが、「うん」とつぶやくその声は、どこか弱弱しかった。僕は少女の言葉に、何かが胸にしこりとなって残ったのを感じた。
その違和感が頭にこびり付いて、僕の胸を少しずつ圧迫してくる。少女はスキップするように古書店を出て、石畳に沿って歩き続けた。
僕はただその後ろ姿を見つめて、顔を伏せてしまうのだった。
古書店を出て、石畳の道をずっと歩いていき、やがてあの森に辿り着き、真っ暗な闇の中を少女はランプで照らし出した。そっと僕を案内していく。漆黒の闇が道の先に揺れており、僕は自然と少女の腕をぎゅっと握った。だが、彼女の存在がそこにあるだけで不思議と心は安心していられるのだった。
少女は僕の手を励ますように何度も叩き、そして森の中を右へ進んでいくと、やがて傾斜した地面が現れて、その中央に木の杭でできた階段があった。
僕はその階段を一歩一歩慎重に降りていき、やがてどこからか賑やかな話し声が聞こえてきた。少女は僕の手を強く引いて早足で歩き出し、こっちよ、と促してきた。
道の先にぽっかりと暖かな光が溢れており、そこにコテージのような木造の建物が見えてきた。そこのテラスで何人もの男達が肩を組み合って酒を煽っていた。
作品名:spirit come home... 作家名:御手紙 葉