TOWA
そんなことを言いながら、あさひさんは頬を涙で濡らし、笑顔でサンドイッチを食べ続けた。僕は身を乗り出して彼女のそんな様子を見つめながら、にっこりと微笑んでいた。
君が笑顔でいられるなら、僕も同じでいられるよ。
そうして、ようやく胸の中で、彷徨い続けたピースがその枠にはまるのがわかった。
*
僕はただ、あさひさんが笑顔で、あの喫茶店に戻ってきて、出会った時のように小説の話題で盛り上がって、どうでもいい話をして、くだらない恋をして、そしてほんの少しだけ僕のことを気遣ってくれればそれでいいと思っていた。
自分でも腰抜けだと思うが、僕は彼女の想いをただ見守っていたいと考えていたのだ。なんだろう、ただの弱虫だと思われても仕方がないのだけれど、不思議とそれが嫌な気はしなかった。こういう気持ちは、果たしてどう言葉で表現すればいいんだろう。
僕はそれからもほとんど毎日TOWAに通って叔父さんと懐かしい思い出に浸ったり、コーヒーの種類を飲み比べてみたり、とまったりとした時を過ごしていた。
叔父さんの淹れるコーヒーはとにかくどんな雑念も綺麗さっぱりその苦味やすっきりとした味わいで拭い取って、ほのかな酸味で頭の中を洗浄してくれるのだ。
僕はもうTOWAにいることが日常になってしまったし、後はただあさひさんがもう一度ここに戻ってくることを待ち続けるしかなかった。
あさひさん。僕は君の同志だから、君の気持ちが今ならわかる気がするよ。
「達也の小説には、まだアダルトな部分が足りないな。もっとエロく、もっと渋く書けよ」
叔父さんはそんなことを言いながら、僕の書いた原稿を捲って、あれがいけない、ここが駄目だ、と僕のことを何も考えずに滔々と喋り続けた。
「ねえ、叔父さん。桜さんとどうして結婚しようと思ったの?」
僕は真面目な顔で小説論を説いている叔父さんに、ぽつりとそんな言葉を口にした。カウンターの先で、原稿を読んでいた叔父さんがぎょっとした顔で振り向き、「な、なんだよ、突然」と掠れた声を上げる。
「いや、叔父さんって本当に女の人にモテるのかな、って思ってさ」
叔父さんは苦々しく笑い、カウンターテーブルに原稿を置くと、眉間に皺を寄せて何かを考えているようだった。やがて何度もうなずきながら僕へと振り返り、そして言った。
「俺は別にそんな話題はどうでもいいんだ。だが、一つだけ言うと、大切な人には必ず自分の想いを伝えることを忘れなかったな。相手に対してはぐらかすことなく、それこそ直球で想いを伝えることだけは貫き通した。その方が、相手にもわかりやすいだろ?」
「確かに叔父さんの堂々とした性格なら、そう振舞うだろうね。桜さんにもそうやって何度もアピールしたの?」
「アピールしたというよりは、普段の俺の行動を見てれば、俺がどんな奴なのか、わかるだろ。だから、一番近くで彼女に見てもらっていたんだよ。つまり、うちで働いてもらった」
僕はふっと微笑み、叔父さんのその横顔が清々しいほどにいつもの通りで、着飾ることなくすべて本心で語っているのがわかった。それが嬉しくて、僕は叔父さんの淹れたコーヒーをもう一度口に含んだ。
「ま、要するに俺は別に何もしなくても、モテたってことだな。へへへ」
「モテたかどうかはわからないけど、でも、叔父さんを想う人の気持ちが少しわかった気がしたよ」
すると、叔父さんは照れくさそうな顔で鼻の下を指で擦り、「褒めるんじゃねえ。自分に酔っちまうじゃねえか」とそんなことを漏らした。
「いや、別に褒めてないよ。もう何歳だと思ってるんだよ。今のは昔話だろ」
「お前もたまにきついことを言うな。さっきからお前の視線が突き刺さるように鋭いのは、何を妬んでいるんだ? 俺が何をしたっていうんだ?」
僕は溜息を吐きながら、ブラックコーヒーにお砂糖を入れて、別の味わいを楽しんでいると、そこでふと背後から甲高いドアベルの音が聞こえてきた。
僕は振り向かず、物思いに耽りながら文庫本に目を落としていたが、そこでその小さな足音が少しずつこちらに近づいてくるのがわかった。僕ははっと顔を上げて、叔父さんの顔を見た。
「いらっしゃいませ!」
叔父さんは僕の背後へと視線を向け、その客に向かって挨拶をした。彼は僕にうなずいてみせ、白い歯を見せて満面の笑みを浮かべる。
…………本当に?
「ねえ、達也君」
すぐ側から、その何度も聞かされた明るい声が僕の元に届いた。僕はそっと振り向く。すると、そこにはもう陰りなどない、本当に心からの笑顔が浮かんでいた。ふわりと栗色のショートヘアーが浮き上がり、彼女は首を傾げてみせた。
「隣、座っていいかな?」
僕は様々な感情が一瞬で胸に溢れてくるのを感じながら、うなずいて、そしてにっこりと微笑んで言った。
「もちろんだよ、あさひさん」
すると、あさひさんはくすっと微笑んで僕の肩に手を置き、体を支えながら隣の席に座った。カウンターテーブルにメニューが差し出されると、彼女はそれを受け取り、そしてはっきりとした声音でそれを告げた。
「今までで最高のブレンドコーヒーを下さい」
オーナーはにんまりと口元を曲げて、そして大きくうなずき、「おうよ!」と厨房へと向かっていった。僕はあさひさんの晴れやかなその顔を見つめながら、あまりにも感情が胸を詰まらせていて、声を上げることができなかった。
本当にあさひさんは、この店が好きなんだな。
僕は心からそう思った。すると、あさひさんがじっと厨房で作業している叔父さんの背中を見つめながら、どこか優しい眼差しをして言った。
「私ね、この数日間、ただこの店に来るのが怖くて、決心できずにいた訳じゃないの。もうこの店に来ることは、最初から決めていたから。ただ一つの為に私は全身全霊で壁にぶち当たってきたんだ」
そうして彼女が鞄から取り出したものを見て、僕はもうどんな言葉を零すことも、彼女に気の利いたセリフを話すこともやめ、ただ叔父さんがこちらにやって来るのを待った。
そして、叔父さんがコーヒーカップを手にこちらに近づいてくると、あさひさんにもう一度、「本当にいいの?」と視線で訴えかけた。彼女は迷いなく、大きくうなずいた。
「言われた通り、俺の最高傑作のブレンドを持ってきたぞ」
あさひさんの目の前に、湯気を立てたそのカップが置かれた。彼女はそれを掌で包み込むようにして持ち、そしてまず最初にそれを鼻先に近づけた。
そして、目を閉じてその香りを楽しんでいるようだったが、叔父さんは真剣そのもので、じっと彼女の様子を見守っている。
瞼を開き、そっとコーヒーを口に含むと、あさひさんは大きく目を見開いた。何度も何度もカップを口に近づけ、少しずつ味を堪能しているようだった。
「どうだい?」
あさひさんはカップをソーサの上に置き、そして鈴の音のように綺麗なその声で言った。
「私が本当に飲みたいと思ったものでした」
叔父さんは一瞬呆然とした顔をしたけれど、すぐにがははははと笑い声を上げて、何度もあさひさんの肩を叩いた。
「ありがとよ、あさひちゃん。俺もこの店を開いて以来の最高の言葉をもらったよ」