TOWA
あさひさんは唇をわななかせ、そして何か言葉を絞り出そうとしたが、すぐに俯いてしまった。ぽつりと、小さな涙がテーブルに落ちて弾かれた。
「同志であるあさひさんのことを、僕は軽蔑したりしないよ。それに――」
僕が彼女の手を強く握り、身を乗り出そうとした時――。
「あれ? たっちゃんじゃない!」
僕の背筋を冷たい氷河のささくれだった断面が伝い落ち、無数の小さな傷跡を残していった。僕は歯を食い縛り、顔が引き攣るのを必死に抑えて、そして小さく息を吐き出して覚悟を決め、振り返った。
「たっちゃんだ! なんだ、来てたなら、先に言ってくれれば良かったのに!」
そこに立っていたのは、一人のすらりと背が高い女性だった。中年とは思えないくらいにみずみずしいそのきめ細かな肌は照明の光を弾き返すほどで、薄化粧をしており、彼女の長い茶髪が明るい雰囲気とマッチしていた。
彼女は冬なのに半袖のシャツを着ていて、その体型は引き締まっており、若い女性が見たら格好いいと思ってしまえるような、いかにも働く女性、といった空気を纏っていた。
僕は彼女の顔を見て、思わず口元が緩んでしまうのを抑えられなかったが、それよりも僕とそのオーナーの女性を見て、目を見開いているあさひさんの横顔に、胸が締め付けられた。
「たっちゃん、最近この店に来ないから、どうしたのかと思ったのよ。高校が近くにあるのになかなか来ないし、私のこと忘れちゃったのかしらって夜も眠れない日々を……」
「色々と僕だって忙しいんだよ。勉強もあるし、それに僕、他にもはまってることがあったから」
すると、オーナーの女性がちらりとあさひさんの顔を見遣り、そして途端ににやにやした顔を浮かべて僕の肩を小突いてきた。
「ははあん。わかったわよ。新しい彼女と一緒にいたくて、私のこと、疎かになっていたのね」
「なんで、そういう言い方になるんだよ。それに、彼女とは別に付き合っている訳じゃないんだから」
すると、女性がその決定的な一言をつぶやいた。
「もう寂しいわあ、私、たっちゃんの親戚なのに、全然大切にしてくれないんだもん」
――たっちゃんの、親戚なのに。
あさひさんの肩から力が抜け、僕の指を握っていた彼女の手がすぐに離れた。顔中が凍りつき、呼吸を止めて、何もかもが停滞してしまったかのような、そんな呆然とした表情がすぐに浮かんだ。
あさひさんが僕へと視線を向け、その顔が叔父さんの表情と重なったのだろう、彼女はぽつりと彼の名前を口にした。そして、おばさんがあさひさんに向かって何か言いかけた時、あさひさんの心が今度こそ僕が投げ入れた矛で砕け散った。
「え、あ、なんで……達也君、オーナーの親戚、だったの? だってそんなの、って、」
「あさひさん」
僕が自分自身も泣いてしまいそうになりながら歪んだ笑顔を見せて言葉を絞り出そうとすると、その途端、あさひさんは顔を真上へ伸ばして――。
ああああん、と大声を吐き出して泣き始めた。子供がお母さんに何かをねだる時のように、ただただ泣くことだけに全身を使うような様子で、人の目など気にせず、ただ泣き喚いた。
僕はすぐにあさひさんの腕をつかんで止めようとするが、彼女はもう何もかも堪えることなどできずに、ずっと泣き続けてその声を喫茶店に響かせた。
「そんなのってないよ。だって私、達也君にだからすべてを打ち明けようと思ったのに。すべて無駄だったってことじゃない。私がただ馬鹿な勘違いをして、達也君を困らせて……」
おばさんは突然泣き出したあさひさんを見つめて、驚くよりもまず、僕に鋭い視線を向けて何故彼女が泣いているのかと問いかけてきた。僕は軽く手を振って、彼女の追及を遮り、あさひさんの手を握って、「落ち着いて」と囁いた。
「そんなのってないよ。もう、私立ち上がれないかもしれない。何もかもが怖くて」
僕はただじっと言葉を呑み込んで、彼女が落ち着くまでその涙に濡れた言葉を一つとも漏らさずに聞いた。おばさんはそっと席から離れて奥へと姿を消していった。
僕にできることは、ただあさひさんが自分の気持ちを信じて、全てを許すことができるまで待ち続けることだ。そう、僕が唯一彼女の言葉を聞いてあげることができたのだから。
例えそれが自分の心を引き裂いて、その無慈悲な現実に焼き焦がされてしまうのだとしても。
「達也君。私……どうしたら、」
そうしてあさひさんもずっと声を零して泣き続けた。店内で談笑していたサラリーマン達が遠巻きに心配そうな顔でこちらを見守っている。
僕はやがてあさひさんが声を枯らして黙ってしまうと、そこでようやく沈黙を破り、彼女の手をぽんぽんと叩いて言った。
「大丈夫だよ、あさひさん。僕は君の恋をおかしいだなんて言わないよ。ただ僕は君を受け入れるって、約束したんだから。僕がいるところでは、ちゃんと君はただ恋をしている普通の女の子なんだよ」
あさひさんは「達也君」とつぶやき、そして鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をさらに歪ませ、そして必死に自分の想いを口にした。
「達也君がそう言ってくれるから……だから私、誰かに自分の想いを伝えられたんだ。達也君がいたから、すべてを話せたの」
彼女のその強い意志のこもった瞳を見て、僕は胸が灼熱の太陽に触れてしまったような、そんな焼け付くような感情を覚えた。僕は何度もうなずく。
「ありがとう、達也君。私、頑張るよ。馬鹿でも、信じられない変わり者でも、自分のできることをするよ。そう、君と約束するから」
僕はうなずいて、すぐに頭上へと視線を向けた。自分の目に溢れたその涙を、彼女に見せるのはあまりにも格好悪いと思ったから。
「本当にありがとう。達也君と友達になれて、幸せだね、私」
そこで弾むような足取りで誰かが近づいてくるのがわかった。振り向くと、おばさんが片手でトレイをつかみ、それをこちらへと運んでくるのが見えた。
「取り込み中、失礼するわね。これ、差し入れだから、食べてね」
そう言っておばさんは少しもその笑顔を崩すことなく、あさひさんの目の前にトレイを置いた。その上には、サンドイッチが盛られた皿と、暖かいコーヒーが置かれていた。
あさひさんは目を見開いて、そして何度もおばさんとサンドイッチの皿とを交互に見て、そして口をぱくぱくと動かせた。
「たっちゃんと仲良くしてもらってるお礼だから。遠慮なく食べてね」
そう言って叔母さんは、あさひさんが何かを言うよりも早く「ごゆっくりね」と手を上げて、颯爽とその場を去っていった。
僕は思わず叔母さんの背中を見つめて、大声で噴き出してしまった。あさひさんも呆然と手元の皿を見詰めていたけれど、やがて同じようにくすくすと声を上げて笑った。
そして、そっと一つのサンドイッチを手に取った。
「いただきます」
そう言って彼女はサンドイッチを丸ごと口の中に放り込んだ。すると、サクッとレタスが口の中で弾け、彼女は目を丸くして夢中で食べ始めた。
「おいしいよ、これ……なんだか、悩んでいたのが馬鹿みたいだね。ホント、もうどうでもいいや」