TOWA
思わず足を止めてしまう。門に寄り掛かるようにして、一人の女子高生がこちらを見つめていたからだ。僕は呆然と、あさひさん、と声を零した。
あさひさんは門に深く背を寄り掛からせて、俯きながらこちらへ上目遣いの視線を向けていた。学校からそのまま来たのか制服で、どこか目元が腫れぼったかった。
その沈んだ表情を見て、僕はすぐに背筋が冷えていくのがわかった。彼女がここまで思いつめた顔をするのは、何かとても深刻な問題があるとわかったからだ。
何が君の心を苛んでいるんだ?
僕は拳を握りながら、そっと彼女へと体を向け、歩み寄っていく。すると、隣でこちらの様子を察したらしい信吾が目配せしてきて、うなずいているのが視界の端に見えた。
そっと彼女の前へと近づくと、微笑んで「あさひさん」と声をかけた。すると、あさひさんは今にも泣き出しそうな顔をして僕を見返し、ただ腕を握ってきた。
「一緒に来て。お願い」
彼女に何かを言いかけた僕は、その空が崩れ落ちて世界が終わりを告げたような悲しげな瞳を見て、息を呑んでしまう。本当に、どうしたんだよ。こんなにまで思いつめて、僕は何を見過ごしていたんだろう。
「お願い、達也君……」
僕は彼女の手を取って、大きくうなずいた。すると、信吾が離れた場所から「行け」と顎をしゃくって促した。心の中で信吾に感謝しながら、僕は彼女の手をぎゅっと握った。
あさひさんは栗色の髪をふわりと浮き上がらせ、その瞬間、まっすぐ門を抜けて、駅とは反対方向へと歩き出した。僕は彼女に問いを投げかけることを抑え、ただその乱れのない強い意思の篭った足取りに従って歩き出した。
彼女が何かを決めたのだとしても、僕はただそれを信じて見届けてあげることしかできない。それが僕にできるすべてで、唯一できる彼女への手助けなのだろう。
自分が情けないけれど、ただの内気なガキにはそれが精一杯だったのだ。
そうして僕らは商店街の側の大通りをまっすぐに抜けていき、市役所前の人通りの多い道を曲がって裏道に入った。
あさひさんがまっすぐ向かった場所は、その裏道を抜けたところにあった喫茶店が多い狭い通りだった。僕は郵便局や市民会館が並ぶ区画へと入ったところから、なんとなく目的地が想像できていて、何故そこへ彼女が行きたいのかと思うと、不安が掻き立てられた。
僕が以前来たことがあったその喫茶店は、雑居ビルの裏側に建てられたこじんまりとした小さな店だった。通りに面した壁に窓ガラスが大きく張られていて、中の様子を覗くことができた。
外観は真っ黒に塗られたコンクリ造りで、お洒落というよりは、ビジネスマンが利用するような利便性だけを考えたお店であるような気がした。
僕は彼女がドアを開き、中へと入るのを見届けて、一つ深呼吸した。当然この店に入って出会うことになるであろうその人に対して、どう説明しようかと考えてすぐにやめた。
もうここまで来たら、彼女のことだけを考えて行動すればいい。僕が彼女から受け取ったものを考えれば、こんなこと本当に小さな救いでしかないのだ。
僕はそっと店内へと足を踏み入れ、すぐにその懐かしい匂いに口元が緩んでいくのを感じた。TOWAが全体的に薄暗く照明が設定されていたのに対し、このKANATAというお店は、照明が隅々まで行き当たり、明るい室内が保たれていた。
カウンターはちょうど長方形を描くようにテーブルが折れ曲がっていて、椅子も床へと繋がった回転式のものだった。テーブル席が規則的に左右へと並べられ、ガラス張りの壁を境に喫煙席と分かれていた。
僕はそのスムーズジャズの音色に心が次第に落ち着いていくのを感じながら、あさひさんの後に続いて、そっと端の席に腰を下ろした。
彼女は少しだけ微笑んで、そしてどこか震える唇を開いて僕に語りかけてきた。
「あのね、達也君。ここの店、TOWAの姉妹店なんだ。TOWAのオーナーと、このKANATAのオーナーって従兄妹同士で、ずっと前から仲良く一緒に協力し合って経営してきたんだって。私、オーナーからその話を聞いて、すぐに来てみたんだけど、彼の言っていたことが何もかもその通りで驚いたんだ」
あさひさんはそう言いながら、僕の手をそっと握って目を閉じ、自嘲げに笑って言った。
「私ってね、すぐに何かにのめりこんじゃう性格してて、何か一つ気に入ったものが見つかると、ずっとそればかりに夢中になっちゃうの。KANATAに来た時も、オーナーの言っていた特徴が店に表れてて、内装とかBGMとかコーヒーとか、すごく感動したんだ」
僕はそっとうなずき、彼女の手を握り返して、彼女がどこか強張った顔で何かつらい事実を僕に話したがっているんだとわかった。僕はただ「そうなんだ」と優しく彼女の言葉に相槌を打った。
「それで、オーナーがすごく格好良く見えてさ。私も喫茶店の経営者になりたいなって憧れたんだ。でも、普通ならそこで妄想も程々にするんだけど、私はね――」
あの人のこと、本当に好きになったんだ。
彼女はそう掠れきった声で言って、僕の呆然とした顔を見て唇を噛んで俯いた。
「何歳離れているんだって感じだけど、どうしても心が彼に惹かれていくの。それで、TOWAに行ってから、ずっと今まで通い続けてきたんだ。何年かな……二年ぐらい、だね」
あさひさんはそう言って強く自分の目元を擦り、その溢れてきた熱い雫を荒っぽく拭い取った。そして、頬に張り付いた栗色の髪をぎゅっと握り締め、何か堪えていたものが暴れ出したような、そんな苦しげな表情で言った。
「私、馬鹿だよね。オーナーはもう六十超えてるし、奥さんいるし……どうしようもなく私の気持ちは場違いだってわかってるの。でも、それでも心がオーナーのことばかりを求めて、抑えられないんだ。でもね、最近はもう――」
彼女は唇を引き結び、必死に俯きそうになる顔を押し上げて僕へと笑って言った。限界なの、とその心がナイフで八つ裂きにされてしまったかのように、掻き消えそうな声でつぶやいた。
「自分の気持ちと、現実の隙間で押し潰されて、もう駄目になりそうなんだ。あの原稿、オーナーに自信を持って見せられるような作品にして、自分の気持ちを伝えようと思ったんだ。だけど、オーナーが私に何か厳しいことを伝えようとしたとわかった瞬間、何か胸が引き裂かれそうになって――」
もう、いいんだよ。
僕は彼女の顔を直視できなかったが、気付けばそんな言葉をぽつりと漏らしていた。顔を上げて、彼女のぐちゃぐちゃになった顔をじっと見つめた。そう、何も不安に思うことはないんだよ。
「だって、私は――」
「君がおかしいなんて言う奴は、僕がぶん殴って君の書いた原稿の山に顔を突っ込ませて後悔させてやるよ。僕はいつだって君の味方だし、同志だから」
「同志?」
彼女が真っ赤に充血した目を僕へと向けて、そしてその言葉を繰り返した。その縋るような視線を受け止めて、僕はくすりと笑ってうなずいた。
「君が僕の作品を受け入れてくれたように、僕も君の気持ちを受け入れるよ。僕らはお互いに自分の大切なものを共有してるんだよ。だから、同志だ」