TOWA
「うん。わかった。とりあえず書き込むのはほどほどにして、リズムを良くする為に、そこだけを直してみるよ」
そう言ってあさひさんは席を立ち、「少し席を外すね」と化粧室の方へと歩いていった。僕は思わず口元を緩めてしまうのを抑えながら、彼女が頑張って書き綴ったというその作品を何度も読み直した。
ふとそこで、叔父さんが近づいてきて、「お!」と嬉しそうな顔で大きな声を上げた。僕が持っている原稿を見つめて、興味津々といった様子で身を乗り出す。
「それ、あさひちゃんの原稿か。どんな作品か、読んでみたいな」
「あ、うん」
叔父さんへと原稿を差し出すと、彼は一ページ目だけを抜き取って、それをじっと読み出した。そして、うなずいた後に首を傾げたり、と熱心に読み耽っているようだった。
どうだろうか。叔父さんもかなり小説書いてたみたいだし、何かアドバイスくれるかもしれない。
そこであさひさんが戻ってきて、僕へと笑顔を向けて、「どうだった?」と言いかけた。そして、叔父さんが原稿を持って読んでいるのを見た瞬間――。
その顔色が瞬時に変わり、目を見開いた。
僕はその表情を見て、何か選択を間違ってしまったような、そんな悪い予感を覚えた。すぐに叔父さんへと振り向いて、声を上げようとするけれど、そこでタイミングが悪いことに、彼があさひさんへと顔を向けた。
「あさひちゃん。原稿を読ませてもらったけど、ここの部分さ、少し描写を加えて――」
パン!
物凄い大きな音がして、ぎょっとして振り向くと、あさひさんが顔を伏せて鞄を手に取っていた。そして、こちらへと振り向きもせず、顔を俯かせて店を出て行ってしまった。
ドアベルがけたたましい音を立てて、最後には僕らの鼓膜を突き刺してくる。
「あ、あれ……俺、何か悪いこと言っちゃったかな?」
叔父さんは呆然とした顔で彼女が出て行った方向を見つめ、あたふたとし始める。僕はすぐに椅子から降りて、店を駆け出た。
ドアを開いて外へと身を滑らせると、もうその狭い路地裏の道には彼女の姿はなかった。ただ、冬の凍てつくような空気が僕の首筋を何度も突き刺してくるだけだ。
彼女に何があったんだろう。
僕は蔓が生い茂る建物の壁に沿って、その入り組んだ道を走り始めようとしたが、すぐにやめた。こんな迷路のような道をどう抜けたかなんて、わかるはずがなかった。
僕は彼女が渡したその原稿の束を胸に抱きながら、唇を噛み締めた。何が彼女の心を切り裂いてしまったんだろう。僕が悪いのか? 原稿を人に見せてしまったから。
どんなに思考を巡らせても、ただ無音が僕の聴覚を突き刺すだけだった。答えなどないのだ。彼女のいないこの喫茶店には、どんな回答も用意されてないのだから。
僕はとぼとぼと再びTOWAの店内へと戻ってきたが、叔父さんは戸口に立って、とても居たたまれないような複雑な表情をしていた。
「行っちゃったか」
「うん。でも、叔父さんの所為じゃないよ。悪いのは、僕だ」
そう言ってカウンターの席に再び腰を下ろすと、叔父さんが近づいてきて、ぽんと僕の肩に手を置いた。
「まあ、いい。またこの店に来たら、俺が何とか謝って弁解しとくから。彼女はなんていったって、二年間この店に通っているんだからな」
僕はその言葉を聞いて、目を剥く。
「二年間?」
叔父さんは少しだけ誇らしそうな顔をしてうなずき、しかしすぐに視線を伏せて、彼女が出て行ったそのドアをじっと見つめた。
僕は自分の胸にそのもやもやした感情が渦巻き始めるのを感じた。何だろう……僕は今、かなり彼女の複雑な事情を知ってしまった気がする。
けれど、その答えはどうやっても言葉にすることができなかった。
僕はいつも悶々とした気持ちになると、スマートフォンで音楽をずっと聴き、内向的になるという性質があった。クラシックを大音量でかけて、それに浸ってひたすらその雨が過ぎ去るのを待った。
だが、学校で授業を受けていても、彼女の見せたあの表情ばかりが脳裏に浮かんできて、勉強も手につかなかった。僕は現代文の先生の禿げた頭をじっと見ながら、何度も彼女が帰ってしまった理由を考えた。
おそらくあの原稿を叔父さんに見せてしまったことが原因であることは間違いなかった。だが、どうしてそれだけで彼女はあんなにも泣きそうな顔で出て行ってしまったんだろう。
叔父さんから自分の原稿に対する指摘を受けたくなかったのだろうか。でも、僕だって作品の悪い部分は平気で口にしていたし、そんなこと気にするような女の子じゃないと思うんだけれど。
その原稿は、僕に見せる為だけに書いていたってことはないだろうか。そう考えて、自惚れている自分の心に軽蔑の感情が出てくる。
とにかく、彼女と会って話がしたかった。だが、僕は彼女の名前と通っている高校を知っているだけで、どこに住んでいるのかは全く知らないのだ。
放課後、彼女の通う高校へ行って、聞いてみるのがいいだろうかと考え、とりあえずその思考に決着をつけることにした。
そうしてちょうど終業のチャイムが鳴った。気付けばホームルームが終わっていて、信吾がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。
「どうした? 自分がやったポカをまだそんなに悔いているのか?」
「余計なお世話だ、女ったらし。お前みたいに、しょっちゅう女の子とデートしては別れるような奴には言われたくない」
「あらら、俺だって思うところがあってそんな選択をしているだけなんだけどな。まあ、プリプリしないで放課後気晴らしに遊びに行こうぜ」
そう言って信吾は眼鏡の奥の瞳を細めて、ぽんぽんと優しく肩を叩いてくる。すると少しだけ肩の重みが取れたような気がして、僕は顔をしかめながらも内心ではほっとしていた。
下校する生徒でごった返している廊下を糸を縫うようにして進みながら、信吾が「今日は俺、タワレコ行きたいと思っているんだけど」とその溌剌とした声で聞いてくる。
「いや、ちょっと行きたいところがあるんだ。西南阪度高校まで付き合ってくれないか?」
すると、信吾は突然腹を抱えて笑い出し、何度もうなずきながら僕の背中を叩いてくる。僕はげほげほと咳き込んで、彼を半眼で睨みながら、「何笑ってるんだよ」とつぶやく。
「いや、お前のそんなマジな顔を見たの、久しぶりだからさ。そんなに大事な彼女の為に、俺も協力しようじゃないか」
そう言って信吾は突然僕の腕を握って、早足で歩き出した。そして振り向き、急ぐぞ、と零す。
「彼女が既に下校していたら、どうするんだ。とりあえず俺の女子高生データベースの中から西南阪度の子を見つけ出して聞き出すよ」
僕は目を丸くしたが、今回ばかりは信吾のおちゃらけた性格が役に立ったな、と素直に思った。
「ありがとう。とりあえず高校までどのくらいかな」
そうして二人下駄箱で靴に履き替え、駆け出すと、信吾は何故か笑いを堪え切れないようで、走りながらがはははとずっと笑っていた。
そうして僕も門の先を見つめて笑みを零そうとしたが、その瞬間、全身の血流が燃え滾るように駆け巡るのがわかった。