秘穴
当然、いつもとは逆に、左足を深く折って右足を上にするように、なるべく迅速に座ったのだが、勝手が違ってよろけてしまった、しかも美歩とは反対側に……。
「大丈夫ですか? よろけちゃいましたけど」
俺のグラスが半分ほどになっているのを見て、美歩がビールを注いでくれたのだが、座り勝手が違うものでなんとなく体がギクシャクしてしまう。
「何か変ですよ? どこか具合でも?」
「いやいや、なんでもないよ」
「なら良いんですけど……」
そう、別段体に異常があるわけではない、靴下の穴を隠しているだけなのだから……。
「まあまあまあ、一杯行きましょう……」
皆が本日の主賓である山田と、スポンサーたる課長に注いで回る。
間の悪いことに二人とも日本酒党、猪口で飲むものだからひっきりなしに注がれている。
俺もそれを無視してどかっと座っているわけには行かない、美歩が逆方向に向いている隙を狙って立ち上がる……と、穴がさっきより大きくなっていることに気づいた。
朝には足の裏の範囲内に収まっていた穴が、丸みを帯びている踵まで広がってしまった事で更にどんどん広がっているようだ。
幸いにして、座敷に座っているせいでスラックスの背中側が少しずれていて、踵は上手い具合に裾で隠れている、しかし、普通に歩けば裾がまくれて見えてしまう、俺はすり足で酌にまわった。
膝を折る時がまた難関だ。
どうしたってスラックスの裾が上がって靴下が露出してしまう。
ドスン!
「わ、びっくりした、急に飛び込んでくるんだもんな」
正座してしまえば尻で踵は隠せる、しかし、酌をするのに腰を上げ下げすれば丸見えになってしまう、俺は山田と課長の間に割り込むように勢いよく座ったものだから、山田が驚いたのも無理はない。
しかし、二人とも上機嫌だったのでそれ以上突っ込まれずに、俺は無事に席に戻ることが出来た、美歩が他所を向いている時を見計らってさっと座ってしまう。
「市川さん、お帰りなさい、ビールでいいですか?」
「うん、ありがとう」
普段は二杯目からはチューハイやハイボールにする、その方が面倒でないし、自分のペースで飲めるからだが、美歩にお酌してもらえるなら話は別だ、ビールの味も格別になると言うものだ……が……ビールをガブガブ飲むとトイレが近くなることをうっかり忘れていた。
そっと指を伸ばして靴下の穴を確認する……また一段と広がってしまっている、もはや踵は丸出し状態、足の裏を見せなければなんとかなると言う状態は既に過去のものとなってしまっている、これはもう歩く姿を後ろから見られるわけにも行かないレベルだ……。
しかし、尿意はどんどんと高まって来る、靴下の穴とお漏らし……どちらがより悲惨かは言うまでもない。
ちょっと慣れて来たのか、立ったり座ったりする時に靴下の穴を隠すのはスムースになって来た、しかし、歩いている姿を後ろから見られると……能みたいにすり足で歩くわけにも……いや、待てよ、膝に手を当てて中腰で能楽師みたいに歩けば、却ってふざけてるだけだと思われるんじゃ……だめだ、だめだ、余計に注目を浴びるだけだ、考えろ、考えるんだ、何か方法があるはずだ……。
そうだ! 腰パンだ、高校時代流行っていたじゃないか。
制服のスラックスを腰骨まで下げて、わざわざ胴長短足に見せる着こなし……あそこまで極端にせずとも裾を引きずるレベルまで下げれば良い。
俺は美歩が隣の同僚と話している隙を見つけてベルトを緩め……スライド式のベルトを使っていて良かったとシミジミ思う……スラックスを下げると、トイレに立った。
腰パンはだいぶ廃れてはいるが、見慣れない姿ではないのか、気にする者もいないようだ。
「ふう……間に合った……」
用を足すと、トイレに誰もいないのを幸い、靴下の穴を再確認する。
それはもう穴と言うレベルではなく、踵部分は既に靴下の用をなしていない。
「何とかならんものかな……裁縫セットでも持ってない限りどうにもならないか……せめてこれ以上広がらないようにしておこう……」
俺は穴がくるぶしの内側に来るように、靴下を90度回転させた、踵部分が膨らんでいないので履き心地は悪いが、穴の部分は皺になるのでだいぶ目立たなくなった。
俺はスラックスを元通り上げると席に戻った。
もうあまり目立たないと思うと気楽になり、その後は歓談を楽しむことができた、もちろん美歩との会話も……。
「え~、宴たけなわではございますが、山田君も明日は朝から産院に行くそうですし、ここらで中締めとさせていただきます、では、他のお客さんのご迷惑となってもいけませんので『一本』で……いよ~! パン!」
宴も無事に終り、下駄箱の所にぞろぞろと向かう。
……そこに油断があった。
靴下の踵部分を横に向けたのは良いが、それはつま先部分も当然横向きになったと言うこと、動けば靴下には本来収まるべき形に戻ろうとする力が加わる、つま先が元に戻れば当然踵も……、立ち上がる時に確認しておくべきだったのだ、美歩との会話に浮かれてすっかり忘れていた。
「おい、市川、靴下破れてるじゃん」
もう一人の同期、川端に指摘された。
ギクッ!……おそるおそる見ると、踵が丸出しどころか、俺の靴下はつま先と足首を包む生地が甲の部分で何とか繋がっているに過ぎない状態……なんてこった、ここまで隠し通したのに……。
「そ、そうか? あ、ホントだ、いつの間に破れたんだろう」
しらばっくれてみるが、川端は軽いノリが身上、会議中に屁をしても『あ、ケツが勝手に喋っちゃった』とか言ってしまうような男だ、察してくれと言うのは無理な相談なのだ。
「でっかい穴だな、ここまでになるのは朝から穴が開いてたんじゃねぇの?」
「ま、まさか、穴が開いてるのを承知で履いてこないさ」
「そうか? 俺なんか週末にしか洗濯しないからさ、金曜ともなるとパンツも靴下もラスイチだぜ、パンツのケツが破れてても穿いちゃうけどな」
女性たちがクスクス笑う……美歩もだ……。
「そりゃあ俺も平日に洗濯できないけどさ、五枚しか持ってないなんてありえないだろ?」
「まあ、市川はわりとオシャレだからな、俺はギリギリでまかなってるぜ……あ、さっきからすり足で歩いたりスラックス下げてたりしてたの、その靴下のせいか?」
見破られていた……しかし、何もそんなに立て続けに図星を指さなくてもいいじゃないか……。
俺はがっくりと落ち込んだが……その時、天使の声が……。
「私、裁縫セット持ってますよ、ちょっとかがりましょうか?」
美歩だ……裁縫セットとは女子力高い……それに何と優しい……。
「いやいや、一日履いてた靴下だよ、そんなの悪くて頼めないよ、それにもうこの靴下は直してどうにかなるレベルじゃないだろう?」
「それもそうですね……あ、じゃあ、向かいのコンビニで」
コンビニ! その手があったのだ、何故朝気づかなかった?
「そ、そうだな、そうするよ」
「一緒に行ってもいいですか?」
「え? いいけど、どうして?」
「私に選ばせて下さい、靴下」
「あ……そう? じゃ、頼むよ……」
予想外の嬉しい展開だ。