秘穴
「ありゃぁ、穴が開いちゃってるよ……」
金曜日の朝の事だ。
俺、市川篤志はいつものように出勤すべく身支度を整えていたのだが、その時、靴下に10円玉ほどの穴が開いていることに気づいた。
俺は入社七年目、独身、一人暮らし。
洗濯は週末にまとめてするのが通例になっているから、金曜日ともなると下着にせよワイシャツにせよ、そして靴下にせよ、ストックはほぼ尽きている。
しかも靴下に関しては、今週一足穴を開けてしまい、予備がゼロの状態だ。
「どうしようかな……」
靴下を履かずに靴を履くというのは出来ない相談……あの芸能人ではないのだから。
俺に残された選択肢は二つ。
穴が開いていてもどうせ靴で見えないのだからそのまま履いて行く、もしくは、洗濯物を詰め込んだ袋の中からましなのを引っ張り出して履く……そのどちらかだ。
洗濯物の袋……あれは少々臭う……その主たる原因が靴下であることは容易に想像できる、朝から晩まで履き続けた靴、オドイーターを噴射する前の靴と同類の臭いなのだから。
となれば、どちらがより問題が小さい選択肢であるかは明白だ。
俺は穴の開いた靴下を履くと、その上から靴を履き1Kのアパートを後にした。
「お早うございま~す」
会社に着き、総務部の部屋に入ると、同期の山田が皆に囲まれている。
「どうした? 何かあったの?」
「山田さん、夕べパパになったんですって!」
「へぇ! そうか、それはおめでとう! 同い歳なのに随分水をあけられちゃったなぁ」
半分社交辞令、半分本音である。
山田は同期入社、歳も二十八で一緒、しかし、奴は去年結婚している。
いわゆる『出来ちゃった婚』。
相手は二歳下の元同僚、当然顔見知りだった。
しかし、篤志は彼女に別段深い関心はなかったし、『出来ちゃった』と言う、軽率な、しかしのっぴきならない理由で人生の大事を決めなくてはならなくなるのは本意ではない。
とは言え、結婚そのものに願望がないわけではない。
『夕べパパになったんですって』と教えてくれた三歳下の美歩……ここのところかなり気になっていて、彼女とだったらそろそろ身を固めても良い頃だとも考えている。
そして嬉しそうに教えてくれた時の美歩の笑顔……これは相当にポイントが高い。
一点ビハインドで迎えたラッキーセブンに飛び出した満塁ホームラン……それくらいの破壊力だ。
この笑顔は独占したくもなるではないか……彼女が皆に祝福される状況で妊娠するのであれば、それに協力することにやぶさかではない……と言うか、積極的に協力したい、いや、絶対に他の奴に協力させたくはない、と思う。
しかも、この山田の顔はどうだ……ここまでデレデレとニヤける事って出来るんだろうか? と思うほどだらしない……しかし、それはもちろん不快なだらしなさではなく、傍で見ていても幸せな気持ちになるようなだらしなさだ、子供が生まれると言う事がこんなにも嬉しいものなら、自分もこれくらいだらしない笑顔になってみたいとも思う。
「今日、みんなでコイツをダシに一杯やろうと思うんだが、都合はどうだ?」
課長もなんだか嬉しそうだ。
「いいですね、思い切り冷やかしませんとね」
「皆はどうだ? 都合の悪い者はいるか?」
赤ちゃんが生まれたばかりなのに奥様に悪いのでは? と言う声がなかったわけでもないが、山田の奥さんならほとんどの者が知っている、竹を割ったようにさっぱりした気性の女性だ、第一本人が既に乗り気なのだ、どうせ明日、明後日は産院に入り浸るのだろうし、皆に幸せのおすそ分けをしても罰は当らないだろう。
午後六時。
「さぁ、まだ仕事をしていたい者、山田をダシに一杯やりたいと思わない者は付いて来なくても良いぞ」
要するに『みんな付いて来い』と宣言して課長が腰を上げる、もちろん全員が腰を上げた。
課長のおごりとなれば、孝行息子の古事にちなんだ店名のあのチェーン店と相場が決まっている。
部下十人も引き連れてそうそう高級な店に行くはずもない、課長が教育費や住宅ローンを抱えている事は皆知っているし、人望の厚い上司だから、それをケチだなどと陰口を叩く奴はいない。
そして、会社の近くのあの店舗に到着し、入り口で靴を脱いで下駄箱に入れ、い・ろ・は……と書かれた木の鍵を抜き取った……その時、俺はきわめて重要なことを思い出した。
靴下の穴だ。
板の間のひんやりした感触が直に伝わって来る。
まずいことになった。
野郎ばかりなら、まあ、大した問題ではない、笑って済む程度の話だ。
しかし、同僚には女性もいる、とりわけ美歩には靴下の穴を見られたくない……。
しかも……薄手のナイロン靴下だ、感触からするとどうやら穴が広がっているらしい……しかし、皆でどやどやと上がる今この時、靴下の穴を確認するわけにも行かない……。
「え? 課長、困りますよ」
「まままま、今日は君が主役なんだから」
総務課総出の宴会の時は、なんとなく席順が決まっている、課長はそう言うことに一々うるさいタイプではないが、それは社会人の常識として……ところが今日は山田に床の間を背負わせたものだからいつもと席順がずれてしまい、いつもなら向かいに座る筈の美歩が俺の隣になってしまった。
(ますいな)と思いつつも、意を決して座り込む。
ちらりと靴下の穴を確認するが、案の定、朝見た時の倍の直径に広がっている、面積なら二の二乗で四倍だ、せめてグレーの靴下なら少しはマシなのだが、今日のは濃紺、肌色がかなり目立つ……。
同僚同士、友達同士で飲む時は別だが、課長と一緒に飲む時は、ビールが行き渡るまでは正座で待つのが慣わしだ、課長が正座しているのに部下が胡坐をかくわけにも行かない……しかし、まあ、なんとかなる、尻を踵に乗せて隠せば良いのだ、なんとなく反り身の妙な姿勢になってしまうが、とりあえず誰も気にしてはいないようだ……。
「ビールは行き渡ったかな? それじゃ、乾杯しようじゃないか」
課長が立ち上がる……いつもなら座ったままグラスを掲げるだけなのだが、今日に限って……しかし、立ち上がらないわけには行かない。
いや、立ち上がるのは問題ではない、立ってしまえば誰も俺の靴下など見はしない、問題は座る時なのだ……。
「え~、この場には居ないけれども奥さんも皆の顔見知りだ、その二人の間に新しい命が誕生したと言うのは誠に目出度い、我が事のように嬉しく思います……それでは、赤ちゃんの健康を願い、新米パパと新米ママの今後の奮闘も祈念して……乾杯!」
「乾杯!」
なんとなく、気もそぞろで乾杯を済ますと、難関が待ち受けている……。
胡坐をかくときには人それぞれ癖と言うものがある、俺の場合、左足が上になるのが普通なのだが、よりによって穴の開いている方を左に履いて来てしまった、靴下に左右の別はないものの、効き足が右なので、なんとなくその方が良いような気がしてそうしたのだが、それが裏目に出た……というよりも、胡坐の癖を優先すべきだったのだ……浅はかだった……。
金曜日の朝の事だ。
俺、市川篤志はいつものように出勤すべく身支度を整えていたのだが、その時、靴下に10円玉ほどの穴が開いていることに気づいた。
俺は入社七年目、独身、一人暮らし。
洗濯は週末にまとめてするのが通例になっているから、金曜日ともなると下着にせよワイシャツにせよ、そして靴下にせよ、ストックはほぼ尽きている。
しかも靴下に関しては、今週一足穴を開けてしまい、予備がゼロの状態だ。
「どうしようかな……」
靴下を履かずに靴を履くというのは出来ない相談……あの芸能人ではないのだから。
俺に残された選択肢は二つ。
穴が開いていてもどうせ靴で見えないのだからそのまま履いて行く、もしくは、洗濯物を詰め込んだ袋の中からましなのを引っ張り出して履く……そのどちらかだ。
洗濯物の袋……あれは少々臭う……その主たる原因が靴下であることは容易に想像できる、朝から晩まで履き続けた靴、オドイーターを噴射する前の靴と同類の臭いなのだから。
となれば、どちらがより問題が小さい選択肢であるかは明白だ。
俺は穴の開いた靴下を履くと、その上から靴を履き1Kのアパートを後にした。
「お早うございま~す」
会社に着き、総務部の部屋に入ると、同期の山田が皆に囲まれている。
「どうした? 何かあったの?」
「山田さん、夕べパパになったんですって!」
「へぇ! そうか、それはおめでとう! 同い歳なのに随分水をあけられちゃったなぁ」
半分社交辞令、半分本音である。
山田は同期入社、歳も二十八で一緒、しかし、奴は去年結婚している。
いわゆる『出来ちゃった婚』。
相手は二歳下の元同僚、当然顔見知りだった。
しかし、篤志は彼女に別段深い関心はなかったし、『出来ちゃった』と言う、軽率な、しかしのっぴきならない理由で人生の大事を決めなくてはならなくなるのは本意ではない。
とは言え、結婚そのものに願望がないわけではない。
『夕べパパになったんですって』と教えてくれた三歳下の美歩……ここのところかなり気になっていて、彼女とだったらそろそろ身を固めても良い頃だとも考えている。
そして嬉しそうに教えてくれた時の美歩の笑顔……これは相当にポイントが高い。
一点ビハインドで迎えたラッキーセブンに飛び出した満塁ホームラン……それくらいの破壊力だ。
この笑顔は独占したくもなるではないか……彼女が皆に祝福される状況で妊娠するのであれば、それに協力することにやぶさかではない……と言うか、積極的に協力したい、いや、絶対に他の奴に協力させたくはない、と思う。
しかも、この山田の顔はどうだ……ここまでデレデレとニヤける事って出来るんだろうか? と思うほどだらしない……しかし、それはもちろん不快なだらしなさではなく、傍で見ていても幸せな気持ちになるようなだらしなさだ、子供が生まれると言う事がこんなにも嬉しいものなら、自分もこれくらいだらしない笑顔になってみたいとも思う。
「今日、みんなでコイツをダシに一杯やろうと思うんだが、都合はどうだ?」
課長もなんだか嬉しそうだ。
「いいですね、思い切り冷やかしませんとね」
「皆はどうだ? 都合の悪い者はいるか?」
赤ちゃんが生まれたばかりなのに奥様に悪いのでは? と言う声がなかったわけでもないが、山田の奥さんならほとんどの者が知っている、竹を割ったようにさっぱりした気性の女性だ、第一本人が既に乗り気なのだ、どうせ明日、明後日は産院に入り浸るのだろうし、皆に幸せのおすそ分けをしても罰は当らないだろう。
午後六時。
「さぁ、まだ仕事をしていたい者、山田をダシに一杯やりたいと思わない者は付いて来なくても良いぞ」
要するに『みんな付いて来い』と宣言して課長が腰を上げる、もちろん全員が腰を上げた。
課長のおごりとなれば、孝行息子の古事にちなんだ店名のあのチェーン店と相場が決まっている。
部下十人も引き連れてそうそう高級な店に行くはずもない、課長が教育費や住宅ローンを抱えている事は皆知っているし、人望の厚い上司だから、それをケチだなどと陰口を叩く奴はいない。
そして、会社の近くのあの店舗に到着し、入り口で靴を脱いで下駄箱に入れ、い・ろ・は……と書かれた木の鍵を抜き取った……その時、俺はきわめて重要なことを思い出した。
靴下の穴だ。
板の間のひんやりした感触が直に伝わって来る。
まずいことになった。
野郎ばかりなら、まあ、大した問題ではない、笑って済む程度の話だ。
しかし、同僚には女性もいる、とりわけ美歩には靴下の穴を見られたくない……。
しかも……薄手のナイロン靴下だ、感触からするとどうやら穴が広がっているらしい……しかし、皆でどやどやと上がる今この時、靴下の穴を確認するわけにも行かない……。
「え? 課長、困りますよ」
「まままま、今日は君が主役なんだから」
総務課総出の宴会の時は、なんとなく席順が決まっている、課長はそう言うことに一々うるさいタイプではないが、それは社会人の常識として……ところが今日は山田に床の間を背負わせたものだからいつもと席順がずれてしまい、いつもなら向かいに座る筈の美歩が俺の隣になってしまった。
(ますいな)と思いつつも、意を決して座り込む。
ちらりと靴下の穴を確認するが、案の定、朝見た時の倍の直径に広がっている、面積なら二の二乗で四倍だ、せめてグレーの靴下なら少しはマシなのだが、今日のは濃紺、肌色がかなり目立つ……。
同僚同士、友達同士で飲む時は別だが、課長と一緒に飲む時は、ビールが行き渡るまでは正座で待つのが慣わしだ、課長が正座しているのに部下が胡坐をかくわけにも行かない……しかし、まあ、なんとかなる、尻を踵に乗せて隠せば良いのだ、なんとなく反り身の妙な姿勢になってしまうが、とりあえず誰も気にしてはいないようだ……。
「ビールは行き渡ったかな? それじゃ、乾杯しようじゃないか」
課長が立ち上がる……いつもなら座ったままグラスを掲げるだけなのだが、今日に限って……しかし、立ち上がらないわけには行かない。
いや、立ち上がるのは問題ではない、立ってしまえば誰も俺の靴下など見はしない、問題は座る時なのだ……。
「え~、この場には居ないけれども奥さんも皆の顔見知りだ、その二人の間に新しい命が誕生したと言うのは誠に目出度い、我が事のように嬉しく思います……それでは、赤ちゃんの健康を願い、新米パパと新米ママの今後の奮闘も祈念して……乾杯!」
「乾杯!」
なんとなく、気もそぞろで乾杯を済ますと、難関が待ち受けている……。
胡坐をかくときには人それぞれ癖と言うものがある、俺の場合、左足が上になるのが普通なのだが、よりによって穴の開いている方を左に履いて来てしまった、靴下に左右の別はないものの、効き足が右なので、なんとなくその方が良いような気がしてそうしたのだが、それが裏目に出た……というよりも、胡坐の癖を優先すべきだったのだ……浅はかだった……。