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銀の錬時術師と黒い狼_魔の島

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『……死がそのひとの救いになることもあります。そういうひとたちを、わたしはこれまでに何人も見てきました』

 ラシーカにとって二度目の死が、彼女の救済につながるのであれば、剣を振るうことに逡巡(しゅんじゅん)はない。
 レギウスはラシーカの死を背負って生きていける。
 強いからじゃない。どうしようもなく弱い人間だからだ。
 それをレギウスは決して忘れたりはしない。
 レギウスは〈神の骨〉を振りかぶった。
「ぬおおおおおおおおおおっ!」
 ラシーカが恐怖に目を見張る。とっさに身を守ろうとして右腕を振りあげる。
 ふたりの頭上で黒い稲妻が破裂した。
 振りあげた〈神の骨〉に黒い稲妻が落ちる。
「ガッ……!」
 レギウスの視界がささくれだった。
 衝撃に全身の骨がきしむ。
 鋭い針でえぐられるような激しい痛みが脳天から爪先までを駆け抜けた。
 レギウスは絶叫する。
 〈神の骨〉が、受け止めた黒い稲妻をそのままラシーカに投げつける。
 ラシーカの裸身が真っ黒な雷撃の大蛇に呑みこまれる。少女の皮膚を喰い破り、筋肉を引き裂き、骨を打ち砕く。沸騰した血が四散した。ちぎれた金髪が朽ち果てた落ち葉のように燃えあがる。
 ラシーカの断末魔の悲鳴。レギウスの背後でリンの悲鳴がそれに重なる。
 男の低いうなり声がどこからか聞こえてきた。
 激痛にもまれながら、レギウスは声の主をたどる。
 ラシーカに覆いかぶさるようにして、男の薄い影が揺らめいていた。
 男は、ターロンだった。
 気が遠のく。必死になってもがき、意識をこの世界につなぎとめる。
 いびつな雷鳴。肌を焦がす熱。眼底に突き刺さる、暗闇とは性質の異なる真っ黒な破片。
 気がつくと、地面に片膝をつき、〈神の骨〉を杖代わりにして身体を支えていた。
 異臭が鼻をつく。視野は不定形の白い残像で塗りつぶされていた。
 ラシーカが立っていた術式陣の真ん中を見やった。
 そこには黒く焦げた痕跡しか残っていなかった。
(リン……リンはどこだ……)
 ふらつきながらも立ちあがり、後ろを向く。
 リンが術式陣のすぐ外側に倒れていた。
 全身の筋肉が無意識のうちに動いた。リンに駆け寄り、抱き起こす。
「リン! しっかりしろ、リン!」
 顔にかかった銀髪を払い、リンをそっと揺さぶる。口のなかを切ったらしく、リンの唇の端から血が垂れている。
 リンはうめき声をあげた。うっすらと目を開ける。左右で色の違う瞳がレギウスを見上げた。
 レギウスはホッと息をつく。
「リン?」
「……わたしは大丈夫です。それよりも、レギウス……まだ終わっていません」
「なんだって?」
 そのとき──
 濃密な闇が頭上から舞い降りてきた。
 背筋に冷たいものを感じて、レギウスは空──漏斗状にゆがんだ空間を見上げる。

 太陽が消えていた。

 ゆがんだ空が音をたてて裂ける。
 そこから、触れたものを腐食させる酸のような邪悪な存在がはみだしてきた。
 地上の様子を眼のない眼でうかがう。うつろな声が空気に充満する。声が探している。
 私の、おれの、ぼくの、あたしの居場所はどこだ、と。
 いくつもの影が宙に舞った。そのたびになにかがへし折れるような重々しい音が、レギウスの耳朶(じだ)に突き刺さった。
 なにが起きているのか、リンに教えてもらうまでもなかった。
 〈黄昏の回廊〉の出入口をふさぐ封印がいままさに破られようとしている。
 その奥に閉じこめられていた太古の神々──巨神たちが、この地上に降り立とうとしているのだ。
 新たな地獄がいままさに現出しつつあった。
「レギウス、わたしを術式陣の真ん中に……」
 リンが立ちあがった。よろめく。レギウスにしがみついた。たったそれだけでリンの息が乱れる。ひどく苦しげな表情。レギウスは心配になって彼女の顔をのぞきこむ。
「リン、おまえは体調が万全じゃない……」
「早く! 時間がありません!」
 こうなったらもはや是非もない。
 レギウスは毒づき、リンの脇の下に腕を入れて体重を支えると、彼女を引きずるようにして術式陣の真ん中へと移動する。
 太陽の隠れた世界は光を失い、術式陣のぼんやりとした淡い光だけが周囲を照らしていた。ラシーカのいた場所の近く──黒く焦げたところから数歩の距離のところにリンを座らせ、レギウスは荒い息をついた。
「どうするつもりだ、リン?」
「ターロンがやったことをわたしもやります」
「ターロンがやったこと?」
「ラシーカは時間を加速させて封印を劣化させました。時間を逆戻りさせれば封印の強度はもとに戻るはずです」
「できるのか、そんなこと?」
「やるしかありません」
 リンは大きく息を吸った。
 全身を使って空中に文字を描いていく。金色の文字だ。神々の使う第一種術式文字。
 術式陣が力を取り戻していく。金色の文字が変色して、真っ赤に輝いた。
 リンが結式句を声高に唱える。
「結式──還輪(かんりん)!」
 文字が収縮して、強烈な光を放つ。色のない世界が血の色に染まっていく。
 本来は神が操るこの神秘的な文字は、術者への負担があまりにも大きい。たちまちリンの顔に玉のような汗が噴きだしてきた。
 レギウスはなにもできない。黙ってリンの錬時術を見守るばかりだ。それがひどくもどかしい。
 レギウスは唇をきつくかんで、かたちのひしゃげた空をにらむ。
 影たちがうろたえていた。地上への出口をふさがれ、目に見えない扉の向こうから声を限りに叫んでいる。
 ここを開けてくれ、と。ここを通してくれ、と。
 リンが力を振りしぼって神の文字をひとつにつなげていく。
 真っ赤な光があふれ、影たちを空の高みへと放逐した。
 と、そこへ──
 影とは異質な存在が空の彼方から押し寄せてきた。
 おめき声──としかレギウスには認識できなかった。
 あるいは人間の吐息と同じ種類のものだったのかもしれない。
 とてつもなく重い波動が空から降ってきて、リンとレギウスを地面に押しつけた。
「……ゲフッ!」
 体中の骨がたわむのをレギウスは感じた。
 身体が空中分解してしまいそうな激しい痛みにレギウスは息をつまらせる。膝をつく。両手をついた。頭が持ちあがらない。上からの圧力で肋骨が胸から抜け落ちてしまいそうだった。
 圧倒的な──ちっぽけな人間などまるでくらべものにならない巨大な存在が、消え去った太陽の背面から姿を現そうとしていた。
 リンがあえぎながらレギウスの腰に腕を回して背後から抱きつく。彼女の柔らかな胸が背中に押しつけられるのを感じたその瞬間──
 目に見えない衝撃波が音もなく落ちてきた。
 リンが震える指で文字を描く。リンとレギウスを囲む半球形の、油膜のような虹色に輝く障壁が出現した。
 衝撃波が障壁のてっぺんをうがつ。耳ざわりな音をたてて障壁がへこんだ。
 人間の胴体よりも太い五本の指のかたちがくっきりと障壁に現れる。だが、指そのものは見えない。指の先に続くはずの手も、さらにその先の腕も、レギウスの眼には映らなかった。
 太い指がうごめく。障壁を破ろうとしてグイグイ押してくる。
 リンが苦痛にしゃがれた声を洩らした。レギウスの背中にリンの爪が深く喰いこむ。