銀の錬時術師と黒い狼_魔の島
とたんに風がやんだ。
術式陣の内部は柔らかい光に満ちていた。〈神の骨〉でつつくと、光の粒子が後退し、目の前に道が開けた。その道をたどっていく。中心にはすぐにたどり着いた。
ラシーカが憤怒(ふんぬ)の形相でそこに立ちつくしていた。
地面に振りまいた時晶が彼女の周囲で蒸発し、頭上のせばまった空──漏斗状にとがった奇妙な空間へと吸いこまれていった。黒い稲妻がときおりひらめいて、巨人のおたけびのような重々しい雷鳴がとどろいた。
レギウスはチラリと上空に目を向ける。
おそらくは漏斗状の空間の先が〈黄昏の回廊〉の出入口。
ラシーカの術式の働きはよくわからなかったが、何十万年、何百万年という気の遠くなるような時間を出入口に流しこんで、回廊をふさぐ封印を急速に劣化させているのだろう。それだけの膨大な時間の流れを人間の錬時術師が単独で操るのは難しい。だが、人間以上の存在としてよみがえったいまのラシーカならば、第一種術式文字を駆使することで操作が可能だ。
フィリアの復活をどうしても阻止したいラシーカは、自ら志願して冥界の王と取引した。あるいは、取引を彼女に持ちかけたのは冥界の王のほうだったかもしれない。
そして、巨神に匹敵する能力をかの神から授かり──あるいは、そのために〈傀儡師の座〉のひとりと融合したのかもしれない──神降ろしの儀式を通じてカミアに憑依したのだ。
ターロンは結局、ラシーカを蘇生させるための捨て石だったのだ。冥界の王の目的は、第一種術式文字を操れる強靭な手駒をつくりだすこと。そして、その手駒に〈黄昏の回廊〉の封印を破壊させること。そのもくろみはここまで見事に成功した。
レギウスは〈神の骨〉をまっすぐにかまえた。切っ先をラシーカに向ける。
ラシーカは術式を制御するのに手一杯のようだ。両手がせわしなく動いて新しい金色の文字を次々とつくりだしていく。彼女の口許に苦笑とも冷笑ともつかない笑みの断片がちらついた。
「どうする気なの? わたしを殺すつもり? 丸腰のわたしを?」
〈神の骨〉ならばラシーカを殺せるだろう。たとえ不老不死の肉体であっても、この武器だったら、そこからいのちをえぐりだすことができる。
だが、できることとやれることとは似ているようで決定的に違う。そこにはレギウスの意志がからむ。殺すことが可能であっても、レギウスにその意志がなければ殺せないのだ。
レギウスは〈神の骨〉の柄をにぎる指に力をこめる。
丸腰の無抵抗の相手を殺す。
リンに出会う以前のレギウスなら──〈光の軍団〉の士官として異教徒と戦っていたころならば、彼にためらいや迷いは生じなかっただろう。殺すことは不浄の魂を抱えた異教徒に与える最大の慈悲でもあったのだから。
いまは、違う。
殺すことが魂の浄化につながるとは露ほども思っていない。以前ほどにレギウスは冥界の王の熱心な協力者になりきれていない。
レギウスの脳裏に、降りしきる雪のなかで祈りを捧げながら死んでいった名も知らない少女の残像がまたたいていた。少女は非難しない。ただ、レギウスのために祈り続けている。その祈りの重さが、レギウスの指を凍らせる。
「殺してみなさいよ。さあ、早くしないと世界が終わってしまうわよ? あなたの大事な錬時術師が死んでもいいの?」
ラシーカが挑発を続ける。それでも〈神の骨〉の切っ先がピクリとも動かないことを見てとると、げんなりとした顔になった。
「がっかりね。腰抜けもいいところだわ。どうして彼女はあなたみたいな男を自分の護衛士につけたの?」
「ラシーカ」
少女の真実の名前をレギウスは口にする。その響きは彼の舌の上で苦く溶けていった。
「どうしておまえはこの世界をそんなに憎むんだ?」
「わたしは憎んでなんか……」
「憎んだりしていなければ、この世界を壊そうだなんて思わないはずだ。おれはこれまで何人もの罪のない人間を殺してきた。そんな自分が赦せなく思うときもある。それでもこの世界を憎んだりはしない。リンだってそうだ。だけど、おまえは違う」
ラシーカはレギウスをにらみつけた。口が開いてなにかを言いかけ、言葉は吐息にまぎれて消えていく。ややあって、ラシーカは怒りのにじむ声色で言った。
「わたしは生まれてくるべきじゃなかったのよ」
一度、きっかけをつくると、ラシーカは身振りをまじえて堰(せき)を切ったようにまくしたてた。
「美人じゃないし、なにか取り柄があったわけじゃない。司統官(しとうかん)の娘というだけ。それだって、妹のフィリアのほうが役割をよくこなしていたわ。父も母も、父の部下の役人だって、いつも目にかけるのは、美人で頭のいいフィリアのほうよ。ターロンさまだって……わたしには振り向いてくれなかった。そんなわたしにどんな価値があるというのよ? 生まれてきてよかったって本気で思ったことはなかったわ」
「だから、この世界が憎いんだな?」
「ええ、そうよ。わたしを惨めな女にした、この世界のすべてを壊したい。徹底的に壊して、消してしまいたい。そして、わたしだけの世界をつくるの。ターロンさまとわたしだけの世界をね。わたしは女神になって世界に君臨してやるわ。みんながわたしを崇拝するのよ。それって……」
「そんな世界をおまえは本気で望んでるのか?」
時間がないことを意識しつつも、レギウスはラシーカに問いかけないわけにはいかなかった。
「周りの人間に認められれば、おまえはそれで満足なのか!」
「バカな女だと思ってるんでしょうね。そうかもしれない。否定はしないわ。でも、もう後戻りできないのよ。やるしかないんだわ!」
レギウスは奥歯をかみしめた。
ラシーカを説得できるとは思っていなかった。理解するのも難しいだろう。ただ、彼女を理解できなくても、なにが本当の望みなのかを知ることはできると思っていた。
それによって自分の覚悟も変わるかもしれないとある程度は期待していたのだが、結局はラシーカにいくばくかの同情と吐き気がするような嫌悪感を覚えただけだった。
ラシーカとレギウス、あるいはラシーカとリンに共通点はない。苦悶や絶望の果てに到達した視座が、彼女と自分たちではまったく違うのだ、とレギウスは気づく。
なにが正しいのか、という単純な問題ではなかった。
どれだけ自分を赦し、他人を赦すことができるのか、その深度の差なのだ。
ラシーカはどちらも赦せなかった。
妹に見劣りする自分も、妹ばかり注目する周囲の人間も、彼女は赦せなかった。
これはラシーカの復讐なんだ──レギウスは思う。
おそろしく壮大な復讐だ。
五柱の神々や〈傀儡師の座〉を名乗る巨神をも巻きこんだ、笑えない喜劇でもあり、泣けない悲劇でもある。だが、シナリオが書かれ、ふさわしい舞台が用意されても、そこに観客はひとりもいない。
レギウスもリンも観客ではなく、舞台で演技する役者だった。
演出は月の女神と冥界の王だ。お膳立てはきっちりとできている。
そして、いま、舞台は不本意な大団円を迎えようとしていた。
救済──〈光の軍団〉にいたとき、レギウスの信仰心の核をなしていたその言葉が、彼の心にひと筋の光明を与える。
リンが言っていた。
作品名:銀の錬時術師と黒い狼_魔の島 作家名:那由他