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銀の錬時術師と黒い狼_魔の島

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第十五話 造反者


 ターロンは丘を登りつめた。
 ひと息ついて、眼下に広がる眺望(ちょうぼう)に目を向ける。
 島を囲む海は凍りついていた。白く砕けた波頭は渦を巻いたまま凝固している。生気のない風が吹き寄せてきて、ターロンの金褐色の髪をなでていく。
 丘を回りこんでいくと、黄ばんだ石段が裏手へと続いている。
 ターロンは石段をたどった。頭上からこぼれ落ちてくる色あせた陽射しが、ターロンのひからびた影を石段にへばりつかせていた。
 石段がつきると、寺院の廃墟が目の前にせりあがってきた。
 焼け落ちた天井、煤(すす)けた壁に並ぶ首や手足がもげた木像、床に散乱する陶器の破片。
 この寺院を建てたのは〈統合教会〉の名もない僧官たちだ。流刑に処された重罪人にいまいちど信仰心を取り戻すべく、報われることのない布教活動にいそしんだ彼らは、二百年前、〈嵐の島〉に侵入した巨神の信徒に皆殺しにされた。この呪われた島で唯一の寺院もそのときに焼き払われた。
 そう──
 〈嵐の島〉は神々に見放された、外道(げどう)の地なのだ。
 ターロンは崩れかかった扉口から廃墟のなかへと足を踏み入れた。
 焼けただれ、炭化した祭壇の前まで足を運ぶと、ターロンは無感動な眼差しで周囲を見回した。内懐(うちふところ)に手を伸ばし、そこに収まった小さな木箱を服の上からなでさする。そうしていると、とても気持ちが安らいだ。
 ターロンの視線が壁際に安置された木像のひとつにとまる。
 打ち壊され、原形をとどめていないたくさんの木像のなかで、その木像だけがもとのままの姿を奇跡的にたもっていた。
 その木像──胸の前に指を組んで柔和に微笑む男の像が誰なのかを知って、ターロンの唇が冷笑のかたちにゆがむ。それはいまを去る三千年前、統合者戦争の時代に〈統合教会〉を創立した、伝説の大導師の像だった。
 ターロンは大導師の木像の前に立ち、しげしげとそれを観察した。低い笑い声が青年の口から洩れる。やおら右手を前へ突きだし、木像に向かって五指を動かす。
 青い飛跡が宙に舞う。第二種術式文字。時間を操作する文字の列が、力を得てまぶしく輝く。
 詩を口ずさむような、抑揚にとぼしい語調で、ターロンは結式句を唱えた。
 青い文字が術式を駆動する。
 加速された時間の激流が大導師の木像に殺到した。乾いた音をたてて木像が朽ち果てる。像を載せていた四角い台までもがいっしょに塵へと還った。
 飛散した木っ端(こっぱ)を右手で無造作に振り払って、ターロンは顔をしかめる。右手を顔の前にかざした。小さな破片が皮膚を突き破って、血がにじみでていた。
 血で汚れた右手を、珍しい動物でもながめるようにターロンはじっと見つめた。
 つかみどころのない既視感が、喪われた日々の記憶を呼び覚ました……。

 赤味がかった金髪の少女が、心配げな表情でターロン──その当時はユドルという名前だった──の右手の傷に酸っぱいにおいのする白い軟膏を塗りこんでいる。
 町中の小さな聖堂の裏手。いつもふたりで並んで座っていた赤い長椅子。頭上の葉むらからこぼれ落ちてくる蜂蜜色の木洩れ日が、気まぐれな風にそっと揺れている。
「たいしたケガじゃないよ、フィリア」
 ユドルは痛みに顔をしかめつつ、右手を引っこめようとした。
 フィリアにあげるつもりでいたお守りの像を彫っているときに、うっかりして刃物をにぎってしまい、てのひらを切ってしまったのだ。
 傷は小さかったが、だからといってフィリアは放置したりしなかった。
 フィリアは聖堂につめる僧官から軟膏をもらい受けて、ユドルの手の傷口にせっせと塗りつけた。軟膏はひどく傷にしみた。
 ユドルが「もういいから」と断っても、フィリアは断固として聞き入れようとしない。どんな宝石よりも澄んだ彼女の琥珀色の双眸(そうぼう)が、強い光を帯びてユドルを射すくめる。
「たとえ小さな傷でも、それが原因で病気になることもあるのよ」
「平気だってば」
「ちゃんと治療しなきゃダメよ」
 きっぱりとした口調でフィリアが説き伏せる。軟膏を塗り終わると、息を吹きかけて乾かした。それが妙にくすぐったい。ユドルがおかしな声を洩らす。笑われていると勘違いしたフィリアがかたちのよい眉を逆立てた。
 怒った顔もすてきだな、とユドルは思う。
 不意にいたずら心がわいてきた。ユドルは顔を寄せ、フィリアの唇に軽くキスをする。
 いきなりのキスにフィリアがびっくりする。ユドルと目が合うと、花のつぼみがほころぶように笑み崩れた。お返しとばかりにフィリアがユドルの左の耳たぶを甘がみする。
 ふたりは声をあげて笑う。
 まだ乾ききっていない軟膏をつけたりしないよう注意してフィリアの柔らかい髪を指ですき、今度はじっくりと時間をかけて彼女の唇を味わった。
 息がとろけていく。胸の高鳴りが止まらない。彼女の存在を全身で感じている。
 若い恋人たちを祝福するかのように緑の濃い梢(こずえ)が風にそよぎ、木洩れ日がさんざめく。
 聖堂の鐘が三度、鳴り響く。澄んだその音が、互いを求めるふたりを優しく包みこんでいく──

 足音がして、ターロンは振り返る。
 廃墟の出入口に若い女が立っていた。女は「少女」と形容してもいい年頃だ。十七、八歳前後だろう。
 ターロンと同じ、赤錆色(あかさびいろ)に染色した地味な麻織物の衣服を身につけていても、彼女が全身から発する神秘的な雰囲気は隠しようもない。
 ターロンの髪よりも色の淡い金褐色の髪が、少女の背中を飾りたてていた。浅く陽に焼けた肌、ほっそりとした肢体、そして暮れなずむ空を溶かしこんだかのような紫色の瞳。
「カミア」
 ターロンは少女の名を呼ぶ。
 カミアはかつて〈僧城〉の尼僧だった。カミアの素生(すじょう)をターロンはほとんど知らない。もとは〈殉教者の第一王国〉の西端に位置する地方都市の領主の娘であったらしい。どのような事情があって出家したのか、ターロンは知りたいとも思わないし、カミアも口にしたがらない。
 ターロンがカミアに求めることはひとつだけ。
 私心のない無制限の献身だ。
 彼女はこれまでターロンの望みをよくかなえてくれていた。なにも反論しようとしない。不平を鳴らすことなく、ターロンの言いつけどおりに動く。
 ターロンのことを本気で愛してくれているのかもしれない。愛される理由もまた、ターロンは知らない。彼女のほうから言い寄ってきたのだ。あなたにどこまでも従います、と。
 ターロンから、にわかには信じがたい計画を打ち明けられてもカミアはまったく動じなかった。この女には感情がないのではないか、とターロンは思う。感情がないから、巨神に捧げる人身御供(ひとみごくう)となろうとも平然としていられる。〈僧城〉の僧官を恐喝するために、彼らに抱かれろ、と命じても唯々諾々(いいだくだく)と従う。
 底の知れない女だ──ターロンはカミアに不審を抱く。どれだけカミアと行動をともにしようとも、彼女を心の底から信用する気持ちにはなれなかった。
 カミアがおぼつかない足取りで歩み寄ってくる。彼女に踏まれて陶磁器の破片が悲鳴をあげた。
「ターロンさま、何者かが島に上陸してきました」
「なに?」