銀の錬時術師と黒い狼_魔の島
圧倒的な殺意が闇の向こう側から頭上にのしかかってくる。
金色の結界の表面に波紋が広がり、押し広げられて、そこからひときわ大きな影が割りこんできた。
「……な?」
レギウスは絶句する。
眼前に立ちふさがった巨大な影を形容する表現を、レギウスは思いつかなかった。
人間の姿をしている──まがりなりにも首から上は、こわい髭を生やした男のそれだった。しかし、首から下に人間の肉体は見当たらなかった。竜の真の姿をレギウスは目撃したことがないが、かの古代の種族が現れたとすれば、このような容姿をとるものだろうか。
黒光りする鱗が全身をびっしりと覆っている。ずんぐりとした長い胴体と側面から突きだした五対の肢。肢の先には五本の鉤爪がピクピクと震えていた。胴体を支える太い尾。背中に生えた鋭い棘。そして、男の異様な両眼──瞳孔がなく、黄色く濁った眼球がリンとレギウスを見据えている。
男の頭部を生やした怪物がきしるような声で吼える。五対の肢が動いて突進してきた。
普通に攻撃していたのでは止められない。レギウスはそう判断した。
ならば──
いのちを削ってでもこいつを止めるのみ。
レギウスは深く息を吸う。
〈神の骨〉の白い刃をまっすぐに立てて、手許に引き寄せる。
気の遠くなるような年月を経た武器──数えきれないほどの使い手の魂をもぎりとってきた妖刀に強く呼びかける。
目に見えない、耳に聞こえない波動となって、武器から応答がある。
諾(だく)、と。
裂帛(れっぱく)の気合。
〈神の骨〉が使い手と認めた人間だけに放つことのできる剣技──〈天亡(てんぼう)〉。
体内に循環するありったけのエネルギーを刀身に注ぎこむ。
〈神の骨〉が歓喜にわななく。
レギウスの魂の断片を吸収して、真っ白な刃がうっすらと紅く輝く。
暴走寸前の心臓が鼓動を刻み、レギウスの腕に、手に、指に、沸騰した血液を送りこむ。
魔物の鉤爪が頭上から降ってきた、そのとき──
「影ごと砕け散れ!」
レギウスは〈神の骨〉を振り切り、妖刀が抱えこんだエネルギーを一気に開放した。
光の爆発。
空気がちぎれ、真紅の衝撃波となって、魔物の肉体に深く喰いこむ。
魔物が苦悶の絶叫をあげる。
鉤爪が折れ、鱗の裂け目から濃い紫色の体液が噴きだす。
濁った眼球の左眼に折れた鉤爪が突き刺さった。怒りの咆哮。人間のものではない、耳まで裂けた口から大量の粘液がしたたり落ちた。
レギウスが魔物の気を惹きつけているあいだに、リンが第二種術式文字を宙に描く。
完成し、力を得た複雑な字形の文字が青い光輝を放つ。
「結式──乱輪(らんりん)!」
魔物の面前で時間がねじれた。まるで鏡のような垂直の境界面がにわかに凝固し、界面の手前では時間の流れが加速され、界面の反対側では時間の流れが遅くなった。ふたつの異なる時間の流れによってねじ曲げられた空間が悲鳴をあげる。青ざめた稲妻がのたうち、境界面で火花を散らした。
魔物が傷ついた巨体を揺らして強引に境界面を押し通る。魔物の体表で無数の稲妻が破裂した。苦痛のおたけび。が、動きを止めない。境界面を突き破って殺到してくる。
魔物が頭を振る。左眼に刺さった鉤爪の残骸が抜け落ち、境界面に揺らめく渦流に呑みこまれて、激痛に痙攣(けいれん)する病人みたいに空中で奇妙なダンスをおどった。
魔物が猿臂(えんぴ)を伸ばす。リンを捕まえようとした。
「させるか!」
レギウスが跳ぶ。
リンに触れようとする魔物の肢を一刀で斬り落とす。暗紫色の体液が飛び散る。
耳をつんざく叫喚。レギウスの鼓膜に痛みが走る。
魔物といっしょに黒い影の群れがおどりこんできた。銀色の境界面にひらめく稲妻を浴びて狂ったように飛び跳ねる。空中で身悶えていた魔物の鉤爪の破片が爆発し、影たちをズダズダに切り裂いた。
レギウスは〈神の骨〉を頭上に掲げる。
体内に満ちあふれる気を、肉体を駆動する力を、彼の存在そのものを、太古の神々の武器が貪欲にむさぼり、あますところなく喰らいつくす。
続けざまに〈天亡〉を放つのはこれまでほとんどなかった。
そうであっても──
(こうでもしねえと止められねえ!)
「影ごと──」
歯を喰いしばる。腕が震える。白い刀身を振り抜く。風がうなり、逆巻いた。
「砕け散れ!」
膨張する光の刃が魔物の眉間を深くえぐった。
巨木が雷に打たれて割れるような、鈍い断裂音。
魔物の上半身が揺らぐ。肉と骨の断片が四散した。
異形の獣が長々とおめく。口から黒ずんだ唾液がこぼれ落ちて、魔物の黒い鱗をしとどに濡らした。
レギウスは膝をついた。身体に力が入らない。立とうとすると、視界がいびつにゆがんだ。
不安定な視野のなかでリンの姿を探す。すぐそばにいた。
呆然と立ちすくむ銀髪の少女の腕をとらえて、しゃにむに走りだす。走っているつもりなのに、実際はリンに肩を支えられていた。
足がもつれる。あやうく〈神の骨〉の刃で自分のふくらはぎをつらぬくところだった。
手足を必死に動かしながら、なんとか腰の鞘に刃を押しこむ。まるで罠にかかった獣のように、背中にしょった荷物が上下左右に暴れた。
リンの黄緑色の巫女装束──腰の横に刻まれたスリットからのぞく白い太腿に意識を集中する。こんなときになにをやってるんだ、とは考えない。むしろ、こんなときだからこそ、意識をつなぎとめておく確実な手がかりが必要だった。
白い肌に浮いた静脈の青い網目模様、足を踏みだすたびに揺れるふたつの胸のふくらみ、くびれた腰と丸みを帯びたお尻。
こんな非常時であっても下半身がしっかりと反応するのを自覚する。腰着にこすれて、走るのがつらかった。自分のうかつさをレギウスは呪う。
いったい、どのぐらいのあいだ走っていたのか。
魔物たちは追ってこなかった。
過去の幻影を映す鏡の窓が、海のなかの泡沫(うたかた)のようにフラフラと漂っている。
ようやく足を止めて、ふたりは乱れた息を整える。
立っていられなかった。
レギウスはその場にへたりこむ。不快な汗が顔を濡らしている。うずくような痛みを胸の奥に感じた。深く息を吸う。咳きこんだ。塩辛い味が口のなかに広がる。どうやら走っているときに舌をかんだらしい。口許を手の甲でぬぐうと、薄い血の泡がへばりついてきた。
リンが背後を振り返る。すっかり乱れてしまった銀髪を丁寧になでつけ、肩に喰いこんだ荷物の紐をずらして痛みに顔をしかめる。
「……どうやら逃げ切れたようですね」
「なんなんだ、あいつは?」
「わたしにもわかりません。おそらく、創世主戦争時代の遺物でしょう。わたしたち〈月の民〉の親戚かもしれませんね」
「嘘だろ。八千年もこのなかをうろついてるのかよ?」
「〈破鏡の道〉のなかには時間が存在しません。ここには生も死も存在しないんです」
「じゃあ、あいつは不死身だというのか?」
「殺すことは不可能だと思います。傷をつけてもすぐに治癒する……というよりも、最初からなかったことになるんでしょうね。未来も過去もないんですから」
「意味がわかんねえよ……」
作品名:銀の錬時術師と黒い狼_魔の島 作家名:那由他