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銀の錬時術師と黒い狼_魔の島

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 リンとの絆が時間を加速する罠からレギウスを守っただけではなく、〈神の骨〉もまた、使い手であるレギウスを守ろうとして干渉してきたのではないか。その結果が、あの悪夢のような白昼夢なのではないか。
(いや、悪夢に変えたのは、たぶんおれ自身だ。こいつじゃねえ……)
 ブトウは、リンのために死ねるのか、とレギウスに問いかけた。それだけの覚悟があるのか、と。
 あの悪夢のなかで、それだけが本当のブトウの言葉──死んだ護衛士の遺言であるような気がした。
(あまりおれをみくびるなよ。あんたにできて、おれにできないことはねえさ……)
「どこもなんともありませんか?」
「ああ、大丈夫だ。それより、なんでおれにあんなことを?」
 いましがたレギウスと唇を重ねたことを思い起こしたのか、リンは頬を上気させて、
「レギウスとの絆を強めるためです」
「絆を?」
 口にしてから思いいたった。リンとの体液の交換は、それが唾液であっても、ふたりのあいだの絆を一時的に高める効果がある。その効果のほどは、これまでも何回か経験していた。時間を加速する罠に対抗するため、リンがとっさにとった行動だったのだ。
「きみが刀を振りまわすからリンさんがケガをしたじゃないですか!」
 あいかわらず顔面を蒼白にしたままのオウズが震える声で非難する。
「え?」
 言われてから気づいた。リンの着ている巫女装束の、へそのあたりがすっぱりと横に断ち切られ、うっすらと血がにじんでいる。
「……おれがやったのか?」
「きみが刀で斬りつけたんですよ。あやうくぼくまで巻きこまれるところでした。リンさんはきみを助けるために、危険を承知で……」
「オウズさん、もう済んだことです。それ以上は言わないでください」
「……すまない」
 無意識のうちにやったこととはいえ、護衛士である自分がリンを傷つけたことにレギウスは苦い怒りを覚えた。
 オウズが不服げにフンと鼻を鳴らす。リンはおっとりと微笑んだ。
「わたしは大丈夫です。かすり傷ですから。それよりも、この罠を仕掛けた錬時術師がわかりました。見てください。これが本にはさまっていました」
 差しだされたリンの右のてのひらに、赤と青のふたつの正方形を組み合わせた八芒星(はちぼうせい)が描かれた、指の長さほどの短冊(たんざく)が載っていた。黄ばんだ獣皮紙でできたそれは、錬時術を駆使するときに使用する術札(じゅつさつ)だ。そして、八芒星は〈統合教会〉のシンボルでもあった。
 施術者を特定することはできないが、術札に残された錬時術の残り香からある程度の人物像を再現することはできる。リンの分析によると、罠を仕掛けた人物は若い男性らしい。十中八九、施術者はターロンと見てまちがいない。やはり〈死者の書〉を盗んだのはターロンなのだ。
「……ヤツは〈死者の書〉でなにをしようとしてたんだ?」
「本の内容が読めませんから、推測するしかないのですが……」
 突然、レギウスは息苦しさを覚えた。
 リンが苦しげな声を洩らす。左眼──澄みきった夏空を切りとったような碧瞳(へきがん)を左手で押さえ、息をあえがせた。
「リン!」
「彼女が……彼女が来ます」
「彼女?」
 左眼を押さえながら、リンはよろよろと立ちあがった。足元がふらつく。〈死者の書〉を収めた書棚に背中をもたせかけ、残った右の翠眼(すいがん)でレギウスを射すくめる。
 異質な気配が押し寄せてくるのを感じた。
 レギウスの全身の肌がおぞけ立つ。吐き気がこみあげてきた。リンとの絆が強まり、普段よりも鋭敏になった五感がかきまわされて、彼の体内で荒れ狂う。
 リンから目をそらすことができない。目をそらした瞬間、巨大な存在に自意識を圧倒されてしまいそうな気がした。
「ああ……」
 リンの身体が小刻みに震える。尋常ではない彼女の様子にオウズは面食らっていた。
「な……」
 オウズは声を呑みこみ、リンとレギウスとのあいだで視線を忙しく往復させる。
「なにが起きてるんですか? リンさんはいったい……」
「まさか……彼女って……」
 レギウスはうなる。立ちあがろうとして足腰に力が入らず、ぶざまに尻餅をつく。
 リンと絆でつながったレギウスにはわかる。圧倒的な力が、〈死者の書〉を通じてリンの身体に流れこんできていた。前時代の遺産が、この世界と別の世界とをつなぐ接点になっている。
(クソッ、〈死者の書〉はやはり巨神の遺物ということか!)
「なんだかリンさんの様子がヘンですよ。彼女って誰ですか?」
「たぶん灰色の女神だ」
「は?」
「だから、灰色の女神が降臨しようとしてるんだ!」
「灰色の女神ですって?」
 オウズは呆然とつぶやく。
 灰色の女神は巨神のなかの最高神──始原の太母(たいぼ)から生まれた最初の女神にして、この地上と天界、冥界の三つの世界をつくりだした、創世の神だ。
 創世主戦争で五柱の神々に敗れた彼女は、〈世界のはざま〉と呼ばれる異世界に自らを封じた。彼女は滅びたわけでも、力を喪ったわけでもない。五柱の神々との争いで世界が破壊されるのを、自らが退くことによって未然に防いだだけなのだ。
 その神が──彼女自身の被造物である銀髪の少女の身体を借りて、この世界に顕現しようとしていた。
 レギウスは知っている。リンの護衛士となるときに彼女が打ち明けてくれたのだ。
 なぜリンの瞳は左右で色が違うのか──左眼には神が宿っている、と彼女は告白した。
 これは、自分が犯した罪の償いとして受け入れた罰なのだ、と。もともと、リンの瞳は右眼も左眼も明るい緑色だった。旧帝国を追放されたとき、左眼が別人──リンは詳細を語らなかったが、おそらくは彼女が殺した人間──のそれと置き換えられたのだ。
 リンが左眼から手をどけた。レギウスをまっすぐに射るその双瞳は──どちらも芽吹いたばかりの若葉と同じ色をしていた。
 リンが微笑む。さながら幼女のような屈託のないその笑みは、邪気がないだけにかえって戦慄をもよおした。
 喉の奥から酸っぱいものが逆流してくる。それをレギウスは無理やり飲みこんで、胸の奥へと押し戻す。
「あなたがレギウスですね。わたしのことがわかりますか?」
「……灰色の女神」
 かすれた声しか出せなかった。
 女神の力が不可視の波動となってレギウスを圧迫する。
 骨が砕けてしまいそうな恐怖を、心が溶けてしまいそうな愛情を、彼女に感じる。彼女の前に身を投げだして愛を叫びたい──そんな衝動が心の奥底から突きあげてきて、手がどうしようもなく震える。
「あんたは……灰色の女神なのか?」
「人間はわたしのことをそう呼んでいますね。光でも闇でもない、灰色の女神、と」
 リンに憑依(ひょうい)した女神がレギウスをじっと見つめる。至福の笑みが彼女の口許にたゆたう。
「あなたからはあの娘(こ)のにおいがします。月の女王と名乗る、わたしの娘のにおいが。どうやらあの娘(こ)もあなたに関心を持っているようですね」
「……なにしに来た?」
 銀髪の少女の姿をした女神はひっそりと微笑むだけで、すぐに答えなかった。