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銀の錬時術師と黒い狼_魔の島

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「いまいちど尋ねる。わが問いに答え、裁きを受ける気はないか?」
「ございません」
 ターロンは首を左右に振る。大仰なため息をついた。
「お帰りください、先生。私はあなたを殺したくありません」
「おぬしはまちがっておるぞ、ターロン。まず、おぬしが殺した僧兵は五人じゃない。おぬしが現場を立ち去ったあと、さらに重傷だった二人の僧兵が死んだ。おぬしは七人の僧兵を殺したのじゃ」
「そうですか。それは気の毒なことをしました」
 とてもそうは思っていないような口振りだった。ヨオウの薄い眉の端がつりあがる。
「もうひとつ、おぬしのまちがいを正してやろう。わしは殺されたりしない。死ぬのはおぬしじゃ、ターロン」
「カミア、〈嵐の島〉は見えたか?」
 視点をヨオウに据えたまま、ターロンがそっけない口調で尋ねる。カミアはこくりとうなずいた。
「はい、ターロンさま。甲板からも見えるほど近づいています」
「そうか。だったら、この船にもう用はないな」
 ターロンは上衣の内懐(うちふところ)を左手でまさぐり、透明な玻璃樹(はりじゅ)でできた四角い容器を取りだした。なかには銀色に光る液体がいっぱいにつまっている。それを目にしたヨオウの両眼が大きく見開かれた。
「それは……まさか時晶(じしょう)か! それだけ大量の時晶をどうやって入手した?」
「これから死ぬあなたが知ったところで詮(せん)ないことでしょう、先生」
 ターロンの右手が宙を泳ぐ。指でなぞった軌跡が、青く発光する線形として空中にとどまった。
 第二種術式文字。
 失われた遠い時代にこの世界を創造した巨神が遺した、神の言葉をつづるための文字。
 それが鮮やかな筆跡で空中に描かれていく。書き損じは許されない。わずかなミスが術者の生命をも奪う致命的な結果を招く。ターロンは目に追いつかない早さで一連の複雑な文字を書き連ねていった。
 ヨオウがうめく。右手をせわしなく動かして、ターロンと同じく、空中に神の文字を急いで描く。文字を完成させる早さはターロンと大差なかった。むしろ、ヨオウのほうがわずかに早い。
 決定的な差は第二種術式文字を完成させる早さではなく、その神の文字が発揮する術力の強さ──すなわち、術者が保有する時晶の量にあった。
 時晶は時間が液体化したものだ。錬時術の術力の源泉でもある。いまは明らかにターロンのほうが時晶をたくさん持ち歩いていた。
「カミア、私につかまれ!」
 カミアがあわててターロンの左腕にしがみつく。
 ターロンが術式発動の結式句を叫ぶ。空中に漂う青い文字が真っ白な光を放つ。あまりのまぶしさに船乗りたちが苦痛の声を洩らして顔をそむけた。
 ターロンに一拍遅れて、ヨオウが結式句を唱えた。ヨオウの描いた文字から黄色の光があふれだす。
 ターロンの文字から放たれた白い光がヨオウの文字の黄色い光とぶつかり、混じり合い、空気を焦がす。
 ヨオウが歯を喰いしばり、うなり声を洩らした。ターロンの白い光がしだいにヨオウの黄色い光を圧倒し、ジリジリと押し戻していく。
「ぬう! バカな……おぬしごとき未熟者にこのわしが……」
「さようなら、先生。あなたにはとても感謝していますよ。私が錬時術師になれたのも先生のおかげです。でも……」
 ターロンはわびしげな笑みを浮かべた。
「誰にも私の邪魔はさせません。たとえあなたでもね、先生」
 八芒星を刻んだヨオウの額から汗の玉が噴きだした。その汗が薄い眉を濡らして、落ちくぼんだ眼窩(がんか)に流れこんだ瞬間──
 ターロンの放つ真っ白な闇がヨオウとその背後の船乗りたちを呑みこんだ。
 容器のなかの時晶が蒸発し、ターロンの周囲で時間の流れが爆発的に加速する。
 ヨオウのしゃがれた悲鳴、船長の絶叫、船の構造材がきしむ不気味な音。
 ターロンの錬時術によって、わずか数秒のあいだに数百年の時間が流れた船はあっという間に朽ち果て、腐り落ち──
 あたかも砂でできた彫像のように、いともあっけなく崩壊した。

 ターロンは錬時術を急いで展開し、自分の周囲の時間の流れを止めた。
 バラバラになった船の残骸が波間に漂っていた。ターロンと彼の左腕にしがみついたカミアは時間が凍りついた海面に直接、立っていた。
 ヨオウの姿はどこにも見えない。船長も、三人の船員も、船に乗りこんでいたはずのその他の船員も、加速された時間の激流に押し流され、骨すらも残さずに塵となって消えた。
 ヨオウが持っていたはずの時晶を回収できればよかったのだが、おそらく海の底へと沈んだのだろう。回収はできそうにもない。
 潮気を含んだこすからい風が海面を吹き渡っていく。船の破片と破片がこすれあって、枯葉の山が崩れるような乾ききった音をまき散らす。
 カミアがターロンの胸のなかから彼を見上げる。いたわるような眼差し。口を開こうとした彼女をターロンは目で押しとどめ、ゆっくりと首を振る。
「……まだ私についてくる気があるか、カミア?」
「はい、どこまでも」
 カミアのいらえに逡巡(しゅんじゅん)はなかった。ターロンを見つめる紫色の双眸(そうぼう)の奥に強い光がくすぶっている。
「たとえターロンさまが冥界に墜ちようとも、わたしは〈死者の門〉の向こうまであなたさまについていきます」
「私は七人の僧兵だけではなく、師匠のヨオウ先生さえもあやめた。〈統合教会〉は全力をあげて私を殺そうとするだろう。おまえも無事では済まないぞ」
「言ったはずです。もとより覚悟の上、と」
 勢いを増した風がふたりの髪を千々(ちぢ)に乱す。ターロンはまだ左手に持っていた時晶の容器を懐(ふところ)にしまうとカミアの腰に手を回し、彼女をそっと抱き寄せた。
「……行こう、カミア」
「はい、ターロンさま」
 ターロンは上衣の左胸──心臓のあたりをそっとなでる。いつも肌身離さず持ち歩いているものがそこにあった。いまもその感触を感じている。温かく、それでいてひどく冷たい、言葉では言い表せないその感覚が、一歩でも前へ、さらにその前へと前進する確固たる力を、ターロンに授けてくれる。
(もうすぐだ。もうすぐ、私は大切なものを取り戻せる……)
 視線を右──東の方向に転じると、水平線の手前に半球形のおぼろげな灰色の影が浮かんでいた。
 あれこそが〈嵐の島〉──ターロンとカミアの目的地の魔島だった。