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銀の錬時術師と黒い狼_魔の島

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第三話 満月の儀式


 残念ながら価格交渉の余地はない。
 報酬は前金で通商金貨三百枚、仕事が成功したらあとで五百枚。ガイルが持ち合わせているのは通商金貨三百枚だけだった。リンは署名入りの契約書と引き換えに報酬の金貨を袋ごと受け取った。
「……これで私も三爵閣下にご報告ができます」
 自分の任務をやりとげてもガイルの顔に達成感はなかった。疲労のにじむ声色で彼は付け足した。
「こういうのもおかしなことですが……ターロン殿をよろしくお頼みします」
 リンとレギウスはガイルの部屋を辞した。
 薄闇に沈んだ廊下の端でトマが壁に背をもたせかけ、ふたりがガイルの部屋から出てくるのを黙然と見守っていた。
 レギウスとトマの目が合う。髭面の傭兵は眉間に皺を寄せて、レギウスを頭のてっぺんから爪先までジロジロとながめた。いびつな笑みを口許にたたえて、
「仕事ができてよかったじゃないか。せいぜいがんばるんだな」
 それから、リンへと顔を向け、わざとらしく五神教徒の印を切る。
「あなたに五柱の神々の思し召しがあらんことを、錬時術師殿」
 トマはきびすを返すと、暗がりの奥へと消えていった。
 レギウスはトマの背中を目で追う。
「……あいつ、おれたちをずっと見張ってたな」
「用心深いのは傭兵の習性ですよ。彼は自分の仕事をしてるだけです」
 リンは手にした袋を揺すって金貨の鳴る涼しげな音を楽しむ。
「見てください、金貨がいっぱいつまっています!」
「……おまえ、カネさえあればそれでいいのか? さっきまで怒ってたじゃねえか」
「将来のことを心配してもしかたありません。これでおいしいものが食べられるのなら、わたしはそれで満足です」
 レギウス、ため息。
 リンの食い気はとどまることを知らない。まあ、将来のことを心配してもしかたがないのは彼女の言うとおりだ。
 ふたりで廊下の端にある階段を二階へと昇った。部屋は別々だ。リンは「わたしの護衛士なんですから、いっしょの部屋でもかまいませんよ」と気安く請け合うのだが、レギウスのほうはそこまで気持ちの踏ん切りがつかなかった。
 リンの部屋の前でふたりは別れた。立ち去ろうとするレギウスをリンが呼び止めて、
「わたしはお風呂に入ってきます。レギウスもお風呂に入ってくださいね。お風呂から出たら、わたしの部屋で……」
「ああ。わかってる」
 リンが柔らかな笑みを浮かべる。
 リンは決して強制しない。その気になれば護衛士の絆を通じてレギウスを無理やり従わせることもできるのに、彼の気持ちを尊重してくれている。部屋が別でも文句は言わない。レギウスがためらっても怒らない。
 リンが扉を押し開けて、自分の部屋のなかへ入る。扉が閉まるのを見届けて、レギウスは唇をきつくかむ。
 わかっている。リンとの関係が中途半端な状態であることは……。
 護衛士は主人である錬時術師に身も心も捧げるものなのだ。その状態をひと言で言い表すならば、主人を無条件で「愛する」ということなのだろう。
 錬時術師と護衛士の性別が違えば、それは夫婦の関係と同等であることを意味する。それもかたちばかりの政略結婚なんかではなく、相思相愛のすえの恋愛結婚に近い。当然に男女の肉体の結びつきも「愛する」ことのなかには含まれる。
(おれは……おれはどうすればいいんだ? おれの前任者と同じように……おまえを愛すればいいのか、リン?)
 その答えはいつも返ってこない。「愛する」という言葉がレギウスの心のなかでうつろにこだまして、どこにも反響しないまま、むなしく蒸発してしまう。またもやため息がこぼれた。
 レギウスは自分の部屋の扉を開けた。
 窓辺に立って月を見上げるほっそりとした人影が視界に飛びこんできた。
 レギウスは背筋をこわばらせる。
 美しい女性だった。
 つややかな銀髪が腰まで流れ落ちている。色の薄い瞳。血のように紅い唇。薄物をまとっただけの豊満な身体の線が、窓から斜めに射しこむ月光に淡く透けていた。
「ひさしぶりですね、レギウス」
 女性が耳に心地よい声で呼びかける。
 レギウスは息をつまらせた。
「……月の女王」
 気がつくと、レギウスはいつの間にか部屋を横断して、彼女の目の前に立っていた。
 闇を支配する女神──月の女王が底の知れない眼差しをレギウスに向けてくる。
 女神がひっそりと微笑む。同じ銀髪の女性でもリンのそれとは明らかに性質の異なる、全身の毛が逆立つような妖しい微笑。
 身じろぎできなかった。全身の筋肉がいうことをきかない。月の女王がスッと右手を伸ばし、レギウスの頬をくるみこむ。
 温かい。しびれるような感覚。
 自分の男性を象徴する部位がたちまち怒張するのがわかった。コントロールできない。
 女神がクスクスと笑う。レギウスの反応をおもしろがっているようだ。
「わたしのことを嫌いにならないでくださいね。あなたにはまだまだ働いてもらわなければなりません」
 狂気じみた欲望がレギウスの胸のうちで渦巻いた。ガマンできない。獲物を追う猟犬みたいに口を半分開け、肩で荒い息をする。
 女神がレギウスの下半身に手を伸ばす。股間の突っ張りを確認し、満足げな笑みを満面に浮かべた。
「いけません。これはリンのためにとっておきなさい。彼女とはまだですよね? なにをためらっているのですか?」
「……ち、違う。おれじゃない」
「いいえ、あなたはリンの期待に応えていません。幸いにも今夜は満月です。わたしが後押ししてあげましょう。リンに最後までつくしなさい。そうすれば彼女との絆が太くなって、あなたはいまよりももっと強くなります」
「……なにしに来た?」
「あなたの顔を見に来たんですよ、わたしのかわいい坊や。あなたは自分が誰のために働いているのか、ときどき忘れてしまうようですからね」
 月の女王がレギウスの身体を優しくまさぐる。女神の触れた箇所から痛みにも似た熱い感覚が四肢へと広がっていく。
 レギウスは背筋をのけぞらせた。喉を鳴らして身悶える。まるで罠にかかって傷ついた獣のように。
「……ウッ……やめてくれ……頼む……」
「いい身体ですね、レギウス。リンに譲るのが惜しいぐらいです。わたしが彼女だったら、あなたの骨までしゃぶりつくしてあげるのに……」
 月の女王がレギウスの硬くなったものをギュッと強くにぎった。下半身に鋭い痛みが走った。
 レギウスは悲鳴をあげる。悲鳴をあげながら、随喜(ずいき)の涙を目尻からこぼしていた。
 このまま殺されてもいいと思った。髪の毛の一本一本にいたるまで、自分の身体はあますところなく女神の所有物だといまは固く信じられる。その純粋な信仰心がとても心地よかった。
「よく聞きなさい、レギウス。一度しか言いません。巨神のご老体たちが〈世界のはざま〉でなにやら始めようとしています」
「……巨神が?」
「そうです。わたしの義理の兄──冥界の王もからんでいるようなのですが、はっきりとしません。彼はとても狡猾(こうかつ)ですからね。尻尾を出すようなヘマはしないでしょう。あなたはリンといっしょにご老体たちを止めるのです。わかりましたか?」