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紅装のドリームスイーパー

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「花鈴にいのちをくれただけじゃない。幸恵さんはおれたち全員に未来をくれたんだ。おれはそれを大切にしたいと思ってる」
「そうだね。わたし、幸恵さんから未来をもらったんだね。一生忘れないよ、幸恵さんがしてくれたこと……」
 忘れられるわけがない。おれも、花鈴も……。
 花鈴は交差点を黙然とながめていた。どんな想いが彼女の胸のうちに去来しているのか、おれには想像もつかない。花鈴の記憶、幸恵さんの記憶、現実世界と夢の世界、消えてしまった交通事故と消えてしまったひとりの女性──感情も情念もいっしょくたに撹拌(かくはん)されて化学反応を起こし、ひとつの混合物となって心のなかに深く沈殿していく……。その静謐(せいひつ)な過程を、おれは花鈴の表情や言葉の端々から推測するだけだ。
 どのくらいのあいだ、そうやって交差点をながめていたのだろう。不意にサイレンを鳴らして赤信号を横切っていった救急車は、花鈴の混沌とした物思いも拾いあげて、どこかへと持ち去っていった。
「……翔馬」
 ためらいがちなその呼びかけに、おれはピクリと反応する。見ると、花鈴は穏やかに微笑んでいた。
「もう一箇所だけ、つきあってもらってもいい?」

 花鈴が行きたがっていたのは、住宅街のなかの小さな公園──バレンタインデーに花鈴からチョコをもらった、あの公園だった。
 狭苦しい長方形の敷地のなかには、ブランコと砂場しかない。誰もいなかった。小さな子供も、子供を見守る母親の姿もない。
 自転車を押して敷地のなかに乗り入れ、ベンチに並んで腰かけた。傾きつつある陽射しが頬にぬくぬくと温かい。近くの民家からひび割れたテレビの音が流れてくる。
 花鈴はフウと息をつき、ベンチの背もたれに身体を預けて背伸びする。いがらっぽい風が吹いてきて、花鈴の亜麻色の髪を乱した。
「小さいときはここで遊んだよね、わたしたち四人で」
「……ああ」
 花鈴は砂場に視線を移して、口の端をキュッとつりあげた。
「懐かしいなあ。あそこの砂を水に濡らして泥の料理をしたっけ」
「泥ダンゴを食べろと強要されて、泣いたことはいまでも憶えてるな」
「え? 誰に強要されたの?」
「おまえだよ。お・ま・え」
「……そうだっけ?」
「都合の悪いことは忘れるんだな」
 口にしてから、いまのはマズかったかな、と思った。花鈴はフフンと鼻で笑って、そっけなく受け流す。生意気で泣き虫な幼稚園児だったあの当時の花鈴を想起させるような、そんな仕草だった。
「忘れてないこともあるよ。小学五年の林間学校の肝試しで、翔馬がわたしを置き去りにしたこととか」
「……まだそれをいうか?」
「だって、すんごくこわかったんだよ? トラウマになったんだからね」
「ごめん。おれが悪かった。二度とあんなことはしません」
 花鈴は急に真顔になった。おれの顔を正面から見据えて、
「……わたしも翔馬に謝んなくちゃね。ごめんなさい。迷惑ばかりかけて、ホントにごめんなさい」
 花鈴はベンチのなかで腰を折って頭を下げる。今度はおれが吐息を洩らす番だった。
「いいよ、もう済んだことだし。おれも悪かったよ。もっと親身になってやればよかった」
「わたしのこと、許してくれる?」
「許す。ってか、いちばん悪いのは夢魔だよ。花鈴じゃないさ」
 花鈴はホッとしたらしい。おもてをあげて微笑み、聞きとりにくい小さな声で、
「……あの……翔馬さ……わたしのこと……」
 いまだ。このタイミングを逃がすわけにはいかない。
 勇気を出せ、おれ! 口を動かせ!

「おまえを守ってやるよ。約束する」

 おれが断固として言い渡すと、花鈴はたちまち顔を赤くした。かわいい。そう思った。花鈴はかわいいって。
「夢の世界でおまえを守ってたニセモノの翔馬みたいにマッチョじゃないけどな。あれがおまえの理想なのかよ?」
「あ、あれは……」
 花鈴は顔を真っ赤にしたまま、胸のまえでせかせかと両手を振り、
「強いほうがいいかなって。強い男のひとって、身体をきたえていそうだから……」
「そうか、そうか。強くてたくましい男が好みなんだ」
 花鈴がムウと頬をふくらませる。おれを頭のてっぺんから爪先までジロジロと見つめて、軽い吐息をついた。
「約束、だからね」
「約束は守るよ」
「ホントに?」
「ホントだって」
「じゃあ、あの約束は?」
「……は?」
「この公園で約束したじゃない。本気じゃなかったけれど……」
「ここで?」
「あ、憶えてないんだ?」
「いや、待て。いま思いだすから。この公園で、だよな。その、いつごろのことだっけ?」
「幼稚園」
「はい?」
「だから、本気じゃなかったって言ってるじゃない!」
「……すんません。どんな約束をしたんでしょ?」
「やっぱり忘れてる! もう最悪!」
「なに怒ってんだよ?」
「怒ってなんかいません!」
「怒ってるって。顔が真っ赤だぞ?」
「恥ずかしいのよ! わたしの口から言えるわけないじゃない!」
「そんなに恥ずかしい約束なのか?」
「だって、わたし、翔馬と……うわ、やっぱり言えない!」
 ひとりで悶える花鈴を、おれは半眼になってながめていた。花鈴、涙目。おれをキッとにらみ、唇をかみしめる。
「あの……思いだしたらメールかなんかで知らせるからさ。怒るなよ」
「もう知らない! 思いださなくていいから!」
 おれは後ろ頭をかく。花鈴はおれをねめつけている。目が合う。なにかが心のなかでスパークした。
 たぶん、おれも花鈴もその瞬間、心のなかにエアポケットのようなものがたまたまできたんだと思う。花鈴の表情から険が抜けていく。彼女の唇に意識が集中した。薄紅色の、柔らかそうな唇。
 おれの頭が花鈴のほうに傾く。花鈴は二、三度、まばたきして、それからそっと目をつぶった。
 おれの唇が花鈴のそれに近づいていく。
 もう少しでふたりの唇が奇跡のランデヴーを果たそうとしたそのとき──
 小さな子供たちの騒がしい声が無我の境地をかき乱した。
 おれはハッとして、頭を起こした。花鈴が目を開ける。耳まで真っ赤になっている。
 幼稚園ぐらいの男の子と女の子がギャアギャアと騒ぎながら、おれたちの座るベンチの横をとおりすぎていった。手にはシャベルとプラスチックの型押し。ふたりの子供のあとを、母親たちがペチャクチャと声高にしゃべりながらついていく。ふたりの母親の視線が一瞬、おれたちの上にとまった。なんと思われたのかは明々白々だ。母親たちの話し声が急にヒソヒソ声になった。
 花鈴がベンチから勢いよく立ちあがる。
「わ、わたし、もう、か、帰るから!」
 あまりにも動揺して、どもっている。呼吸まで乱れていた。
「……お、おう」
「じゃあ、また明日ね!」
「花鈴!」
 大急ぎで立ち去ろうとする花鈴を呼び止める。花鈴は肩越しに振り返った。
「これから幸恵さんが入院してた病院に行くけど……つきあうか?」
 それで一気にふたりともクールダウンした。
 花鈴は苦いものを呑みくだしたような顔つきになった。しばらく迷ってから、彼女は首を横に振る。
「ううん。もう幸恵さんはいないだろうから……」
「そうか」
「それにね、幸恵さんはここにいるの。わたしのなかに……」