紅装のドリームスイーパー
殴られた左半身がじんわりと痛んだ。立ちあがろうとすると膝に力が入らない。あっけなく腰が砕けて、片膝をつく。
金太郎がゆっくりと起きあがる。鼻がへこんでいた。手でさすり、顔をしかめる。
「痛いッス。ひどいなあ」
「多少はマシになったわよ、あんたの顔」
あたしのあざけりの言葉を金太郎はケラケラと笑って受け流す。ピンク色の舌でなめると、へこんでいた鼻がボコリと隆起した。
「もっと味見したいな、きみの身体」
ダランと両腕を垂らし、肩をヒョコヒョコと揺するゾンビみたいな歩き方で、金太郎が近づいてくる。緑色の汗がポタポタとしたたり落ち、甲板に汚らしいシミをつくる。悔しいけど、さきほどの一撃のダメージはほとんどなさそうだ。
あたしは奥歯をかみしめた。まっすぐに立つ。なんとかふらつかずに立っていられたけど、受けたダメージはまだ足腰に残っていた。
葵が大声で励ましてくれる。目をそむけたりはしていない。まだあたしのことを信じて、見守ってくれている。
あたしは微笑んだ。
大丈夫。まだ、やれる。
周囲を取り巻くファントムたちが声を合わせて騒いでいた。「やっちまえ!」と金太郎をけしかける。男も女も、殺気をみなぎらせてわめく。山崎はどんどん若返り、五歳ぐらいの男の子の姿になると、人垣の奥へもぐりこんでいった。見ているのがつらくなったのかもしれない。ルウは終始、無言だった。金色の瞳が冷然とあたしを追尾する。
金太郎が一歩、また一歩と近寄ってくる。ゆがんだ笑みに縁取られた丸っこい顔には殺意も憎悪もなく、闘志すらも感じられなかった。純粋な喜びが──いっそ無邪気といってもいい純度の高い愉悦が、金太郎の表情を活き活きと輝かせている。嗜虐的(しぎゃくてき)、とはちょっと違う。たぶん、ゲームを楽しんでいるノリだ。ヤツにとって、あたしとの決闘は心の底から楽しめるゲームなのだ。
「逃げちゃダメだよ。きみをたっぷりと味見するんだ。おいしそうだな、おいしそうだな。骨までしゃぶるッス」
「変態!」
「甘いの、大好きッス!」
金太郎が大きく息を吸う。胸がふくらんだ。ふくらんで、ふくらんで、風船のように丸々と膨張する。あたしは唖然とした。そのままボールみたいに転がってくるのかと思いきや、あたしの予想は見事に外れた。
金太郎が一気に息を吐きだす。ゴウッと空気がうなった。金太郎のブレスが荒れ狂う暴風となって押し寄せてくる。あたしは両腕で顔をかばう。風圧で身体が押される。足裏がすべった。魚が腐ったようなひどい悪臭に息がつまる。悪臭から逃れようとして──足が動かないことに気がついた。
愕然とする。
自分の足元を見下ろした。膝から下をカバーする脚甲が白く変色していた。力をこめても、まるでコンクリートで固めたかのようにまったく動かない。足だけじゃなかった。顔のまえでクロスした腕も動かなくなっていた。手首から肘までの腕甲がやはり白く変色している。よく見ると、腕や太腿の露出した肌にも白く変色した部位があった。
「クッ……!」
あたしは悟る。白く変色しているのは金太郎の舌がなめたところだ、と。
「ぼくの唾って、息を吹きかけると固まるんだよ。動けないでしょ?」
金太郎があたしの面前に立つ。まだどうにか動かせる頭を仰向かせ、顔のまえで交差した自分の腕越しに金太郎をにらみつける。腕に渾身の力をこめたがびくともしない。あたしが動けないのを見てとって、金太郎が顔をほころばせる。緑色に濁った汗が丸い顎を伝い落ち、肉のひだのあいだに吸いこまれていく。
「もう逃げられないッス。きみの身体、すみずみまで味見してあげるからね」
「や、やめ……」
あたしはおぞけだった。どうにもならないと知ったとたん、あたしの胸のうちで沸騰していた戦意が化学反応を起こして、暗澹(あんたん)とした恐怖へと変ずる。喉の奥からつきあげてきた悲鳴をかろうじて呑みこむ。目尻にじんわりと涙がにじんだ。視界が涙でくもる。金太郎がピンク色の舌であたしの両方のこぶしをなめまわした。白く濁った粘液が、あたしの拳底から糸を引いて落ちていく。
葵がなにか叫んでいる。けれども、すっかり興奮した観客の喚声にまぎれて聞きとれない。フーミンが冷笑を片頬に浮かべていた。バカな女だとあたしを嘲弄している。
金太郎の舌先があたしのこぶし、肘、肩をつつき、鎖骨のくぼみをなめて唾液の水たまりをつくった。気色の悪い舌の感触に背筋がのけぞる。それすらも満足に動けず、中途半端に背中が曲がっただけだった。
金太郎の舌があたしの鎖骨を丹念になぞり、うなじを経て背中へと回りこんでいく。
「おいしいよ、うん、おいしいなあ。きみの肌、とっても甘いッス」
「この……」
「ギブアップする? ぼくはどっちでもかまわないけどね。きみがギブアップしてもやることはどうせ同じだし」
「誰がギブアップするもんか!」
「でもさ、きみ、もう動けないんだよ? いいかげんに負けを認めたら?」
あたしは震える息を吐く。あたしの肌をすみずみまでなめとっていく金太郎の舌の感触がたまらなく不快だった。頭のなかにスモッグがかかったようで、まともに考えられない。膝から下はとっくに力が抜けているのに、粘液に固まった脚甲があたしの姿勢を強制的に維持していた。
絶望しかける。負けを認めてしまいそうになる。もうこんなことを続けたくないと思った。
葵が──必死になって伝えようとしている。「ギブアップして」じゃない。「戦って」とあたしを何度も鼓舞している。こんな状況になってもまだあたしを信じている。
信じられなくなったら、本当に負けてしまうから。あたしに勝ってほしいから。
金太郎が恍惚とした表情であたしを、なめて、なめて、なめつくす。自分が勝ったと信じて疑っていない。無責任なヤジを飛ばすファントムも、難しい顔つきのフーミンも、あるいはルウでさえも、そう思いこんでいる。
だけど……だけど、あたしはまだ終わっていない!
金太郎の舌があたしの胸へと伸びていく。大きく開いた胸元──胸の谷間へとピンク色の舌が這い寄っていった。
こんな開放的なコスチュームじゃなくて、いつもの制服だったらよかったのに、と思って、ハッとする。
あたしの動きを封じているのは、脚甲と腕甲にこびりついた粘液の固着物だ。
もしかしたら……できるかもしれない。試してみる価値はある。
「解夢──バトルコスチューム」
深紅(クリムゾン)の鎧が光の粒とともに溶け、いつものグレイの制服姿になる。
「ヒッ!」
金太郎のピンク色の舌の先端でバチッと紫色の火花が弾けた。たまらず、金太郎がのけぞる。
バトルコスチュームといっしょに粘液の固着物が消えた。あたしの手足が自由になる。露出した肌に付着していた固着物も溶けてなくなっていた。
作戦、成功。あたしは小さくガッツポーズ。
プリーツスカートの裾をひるがえし、たたらを踏む金太郎に向かって突っこむ。
「気持ち悪いのよ、この変態!」
全身全霊の力を右のこぶしにこめて、金太郎のみぞおちにパンチをたたきこむ。まるでクッションを殴りつけるような感触。金太郎の腹のなかに手首まですっぽりと埋まった。
作品名:紅装のドリームスイーパー 作家名:那由他