紅装のドリームスイーパー
「柔らかそうだな、きみの身体って」
金太郎があたしの胸元に視点を据え、指をワサワサと動かす。
「きみの身体ってどんな味がするのかな?」
「なにを言ってるのよ、変態……」
突然、金太郎の口からピンク色の細長いものが飛びだした。ギョッとする。とっさ右にとび、すんでのところで回避する。ピンク色のヒモ状のものがあたしの左の二の腕をかすめた。ぬるりとした感触。白濁した粘液があたしの左腕にべっとりとくっつく。気持ち悪い。短い悲鳴があたしの口から洩れでる。
金太郎の口からブラリと垂れ下がった、粘液まみれのピンク色のヒモ──それは舌だった。あたかもヘビの舌のようにシュルシュルと伸び縮みして、口のなかに出たり入ったりを繰り返している。
葵が息を呑む音が聞こえた。口許を手で覆い、嫌悪感に肩を震わせている。
金太郎がニタリと笑う。あたしは背筋が冷たくなるのを感じた。こいつは見かけだけじゃなく、肉体も人間離れしている。
まさしく怪物だ。
「武器じゃないから、これは反則じゃないッスよね?」
金太郎は背後のフーミンに声を投げる。フーミンは口を開かない。眉ひとつ動かさなかった。もちろん、爬虫類めいた金太郎の長い舌のことは知っていたのだろう。知っていて、黙っていたんだ。
あたしは体格も体力も劣る普通の女の子なのに──こんなの、アンフェアだ。といっても、抗議している時間はない。
あたしは正面の金太郎をにらみ据える。予想外の攻撃手段が舌だけとはかぎらない。舌が伸びるんだから、手足や首が伸びたってちっとも不思議じゃない。もしかしたら、このリングのどこにいても金太郎の手足が届くのかもしれない。
金太郎の、ゴムのような白い肌の下で、筋肉の束がたわみ、うねった。肌の表面に緑色の粒が浮かんでくる。汗──らしい。そんなものまで人間離れしていた。
ファントムのヤジに悪意がこもる。あたしが負けたとき、彼らがなにを見たがっているのか、露骨な表現で金太郎をあおる。山崎ひとりだけが顔をしかめている。金太郎は観客に向かって陽気に手を振り、「いいよ、いいよ」とヤジに応じている。こいつに負けたときの悲惨な結末を思うと胃の底に冷たいしこりを感じた。
首を振って雑念を追い払う。弱気になっちゃダメだ。あたしは、負けない。
金太郎の舌が鞭のようにしなって飛びかかってくる。あたしは身をかがめてよける。粘液があたり一体にぶちまかれる。あたしの顔にも付着した。ゾッとする。顔をぬぐっている余裕はない。
金太郎が巨体を揺らして突進してきた。緑色の汗がパラパラと飛び散る。思っていたよりも動きが速い。鬼ごっこでもしているかのように両手を大きく広げ、ヘラヘラと笑いながらせまってくる。
さながら獲物をとらえるカメレオンみたいに、金太郎の舌が長く伸びる。あたしは左に身体を開いてやりすごす。金太郎が甲板を強く蹴った。前傾姿勢で突っこんでくる。
白い肉の壁があたしのまえに立ちはだかる。あたしは宙をとぶ。金太郎の頭上を飛び越え、空中で一回転して、巨漢の背後に降り立つ。
いまだ。金太郎の背中を思い切り蹴りつけてやろうとして右足を伸ばし──大男の左体側から回りこんできた舌に足首をからめとられた。足首を強く圧迫される。深紅の脚甲が白い粘液に汚れた。
「……な?」
金太郎の舌があたしを引っ張る。舌だけなのに、その吸引力は大の男の腕力以上だった。
あたしは転倒する。ズルズルと甲板を引きずられた。
葵の金切り声。興奮した観衆の歓声。フーミンの舌打ち。
金太郎が向き直る。うれしそうな、緑色の汗にまみれた顔。あたしの右足首をつかむ。ぶん投げた。あたしを、砲丸かなにかのように。
あたしの視界が激しく回転する。帆船の甲板と、白く輝く夢の球体に彩られた虚空とが、ものすごいスピードで右から左へと流れていく。リングの場外に飛ばされる──と思った瞬間、まだあたしの右足首にからみついたままだった舌がピンと張り、あたしを甲板にたたきつけた。
リングの縁ギリギリ。衝撃。あたしの軽鎧(ライトアーマー)がきしむ。肺から空気が押しだされた。
「ウグ……」
夢の世界では気絶することがない。漠然とした痛みがあたしの全身をさいなんだ。
金太郎の舌が足首から放れ、倒れたままのあたしの身体をまさぐる。爪先から膝までを保護する脚甲をなめ、膝裏から太腿へと舌先を這わせ、白くただれた粘液のあとをつけていく。疼痛(とうつう)にも似た鈍い感覚が背筋を冷たくした。
「やめて!」
あたしはゴロリと横に転がり、金太郎の舌から逃れる。苦痛をこらえて立ちあがった。
金太郎が舌をブラブラと揺らし、眼球が飛びでそうなほど目を大きく見開く。息遣いが荒い。興奮しているようだ。白かった肌がほのかな朱色に染まり、緑色の汗と入り混じって、不気味なモザイク模様をかたちづくる。
あたしは肩で呼吸を整える。いまのは完全にあたしの負けだった。負けにならなかったのは、金太郎が手加減したからだ。あたしをわざとリングの場外に出さなかった。とことん、あたしをいたぶるつもりらしい。ホント、胸糞悪い。
太腿を流れ落ちていく粘液のドロリとした感触がとても気持ち悪い。これが現実だったら、この場で吐いていたかもしれない。あたしは右足に体重をかけ、こぶしをかまえてファイティングポーズをとる。手加減されようがもてあそばれようが、まだ負けていない。
ファントムの連中が手をたたいて、はしゃぐ。あたしを指さして無遠慮にゲラゲラと笑う。葵は顔をこわばらせつつも、ファントムのヤジに負けじとあたしに声援を送っている。ルウはいつものとおりだ。泰然自若(たいぜんじじゃく)としたその態度にイラッとする。
「おいしいよ、きみの身体。甘いんだね。砂糖みたいッス」
金太郎が口の周りを唾液でベタベタにして、うっとりとした顔つきになる。挑発だとわかっていても、冷静でいられなかった。あたしが歯を喰いしばってうなり声を洩らすと、金太郎は大きく口を開けた。ピンク色の肉のひだが口のなかで脈打っていた。ドクン、ドクンと、リズミカルに。
「おいしいよ、おいしいよ。もっと、もっと、もっと!」
金太郎が突進してくる。舌が空中で伸縮する。あたしをつかまえようと突き進んでくる。
覚悟を決めた。気持ち悪いのはガマン。飛んできた舌を右手でつかみとり、右手首に巻きつけた。金太郎が舌を巻きとろうとする。その勢いを利用して、あたしは甲板を強く蹴る。舌で引っ張られる勢いに、あたしのジャンプの勢いが加わり、あたしの身体はミサイルみたいに宙を飛んだ。
あたしの意図に気づいた金太郎があわてて舌を放そうとする。が、もう遅い。あたしの右膝が金太郎の顔面に深々とめりこんだ。特大のマシュマロに体当たりしたような感覚。ミシリと耳障りな音をたてて、大男の骨がきしんだ。
金太郎が悲鳴をあげる。後ろに倒れる。あたしは金太郎に馬乗りになり、変形したヤツの顔面にこぶしをたたきこもうとして──棍棒のような太い腕になぎはらわれた。左腕でブロックしたが、すさまじい圧力を吸収できない。吹っ飛ぶ。転がって、またもやリングの縁ギリギリのところでどうにか踏みとどまる。
作品名:紅装のドリームスイーパー 作家名:那由他