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紅装のドリームスイーパー

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 あたしは半信半疑で本のページに視線を戻す。黒い文字が波打っている。いまにも溶けてなくなりそうだ。ひとつ深呼吸。意識を集中する。この文字は読める、と自分に言い聞かせる。目を大きく見開き、紙面に視点を据える。読める、読める、読める。読めないはずがない。呪文のように心のなかで繰り返す。それでも文字は次から次へと蒸発していく。
 ページを繰る。しゃちほこばった文字をにらみつける。文字が揺らぐ。小さな点に分裂して、見る見る縮んでいく。読んでみせる、とあたしは内心で叫ぶ。だんだんと意地になってきた。なにがなんでも読んでやる。
 目に力をこめる。本を持つ両手がこわばる。文字どおり、本にのめりこんだ。
 一瞬、カメラのピントが合ったみたいに、文字の陰影がくっきりとする。ひらがなと漢字の連なりが視野に飛びこんできた。句読点が自己主張している。あたしは最初の一文を読みとろうとして……。
「こんにちは、お嬢さん。またお会いしましたね」
「!」
 突然、降りかかってきた男のダミ声にあたしはビクリと背筋を伸ばした。
 左を向くと、いつの間にかビジネススーツ姿の男が立っていた。山崎昭二。夢の世界を放浪するファントム。ニヤニヤといやらしく笑いながらあたしをながめている。七三に分けた髪。ベッコウ縁のメガネ。シャツの襟に巻きついたネクタイは昨日と違い、青地に銀色のストライプ柄だった。
 あたしは本を閉じる。手のなかの本が消えた。山崎に身体ごと向き直る。山崎は芝居がかった仕草で腰を曲げてお辞儀する。
「芽衣さん、でしたかな。今日も一段とお美しいですな」
「……やっとおでましだな」
 ルウが腰をあげる。四肢を突っ張って伸びをした。
「きみが来るのを待っていたよ」
「ほう、吾輩(わがはい)のことを? では、葵さんは……」
「わたしはここです」
 山崎の背後から葵の声が飛ぶ。山崎が肩越しに振り向く。セーラー服を着た葵が書架の列のあいだから歩みでてきた。真剣な表情。雰囲気の違いを察して、山崎が太い眉を持ちあげた。
「今日はあなたに折り入ってお願いがあります、山崎さん」
「なんでしょう? 吾輩とおつきあいしていただく気になりましたかな?」
「そうですね。わたしもその気になりました」
 山崎が渋い顔つきになる。肯定的な返事をもらっても、葵の硬い顔つきからして、それが望んだかたちのものではないことぐらい、すぐにわかるだろう。山崎の顔に警戒の色が浮かんだ。葵、ルウ、あたしを順繰りに見やり、胸に腕を組む。とたんに山崎の容姿が縮む。背丈が低くなり、横幅も薄くなって……十歳前後の痩せた少年になった。おびえた表情であたしたちを見比べる。書架に背中をつけ、目には涙さえ浮かべている。
「なにもしないでください。お願いです。ボクは悪くなんかありません!」
 と、声を震わせて、ついさっきまで山崎だった少年が懇願する。迫真の演技だ。おびえきった顔が微妙に保護欲をくすぐる。
「なにもするつもりはありませんから」
 葵はゆったりとした歩調で山崎に近寄りながら、辟易(へきえき)したように口をへの字に曲げて、
「お願いですから、わたしのハナシを聞いてください」
 少年はいまにも泣きそうな顔をしていた。背中を丸め、頭を両手で抱える。
「山崎さん、わたしたちといっしょに夢魔と戦ってください。お願いします」
 あたしが予想していた婉曲的(えんきょくてき)な言い方とは違う、ずいぶんとストレートな依頼だった。
 少年がキッとおもてをあげる。体格がふくらむ。もとの山崎に戻った。が、服装はビジネススーツではなく、真っ白な制服だった。軍服のようにも見える。それも、あたしの推測がまちがっていなければ海上自衛隊か、あるいは旧日本海軍か──黒い肩章が示す階級がなんなのかは見当もつかない。
「いまなんとおっしゃいましたかな、葵さん?」
「わたしたちといっしょに夢魔と戦ってください」
 葵は繰り返す。力強い口調で。耳当たりのいい言辞を弄することもしない。ただ、まっすぐに思いを伝える。
 山崎がせせら笑う。おでこに右手をあて、肩を揺すって、発作を起こしたように笑う。葵は厳しい表情で山崎を凝視している。ルウは口出ししない。成り行きを見守っている。
「教えてもらいたいんですが……どうして吾輩が葵さんたちに力を貸さなくちゃならないんです? 夢魔と戦って、それでなんのメリットがあると?」
「夢魔から人々の夢を守ることができます。山崎さん、あなたは自分のご家族の夢を守りたいとは思わないのですか?」
 家族、という単語に山崎が敏感に反応した。笑いをピタリと止め、険しい顔で葵をにらみつける。押し殺した声で言い返した。
「二度と家族のハナシはしないでもらいたいですな。あのバカ者たちと縁が切れて、吾輩はせいせいしてるんですから」
「ですが、山崎さんの奥さんは……」
「やめろ!」
 山崎が一喝する。葵は賢明にも口をつぐんだ。それでもなにか言いたげに口をモグモグと動かしていたが、山崎の威圧的な視線の圧力が葵の口を封じていた。
「なにを言いだすのかと思ったら、まったく……。葵さん、あなたはもう少し常識を働かせたほうがいいですな。取引というのは互いに利益があるから成立するものなんです。片務的な奉仕を取引とは呼ばない。そういうのは義務っていうんですよ」
 葵は大きく息を吸う。山崎の険悪な眼差しをはねかえし、落ち着いた声で話す。
「……山崎さんが亡くなったとき、まっさきに病院へ駆けつけたのは奥さんなんですよ」
「まだそんなことを! いいかげんに黙らないと……」
「奥さんだけじゃありません。娘さんも病院に駆けつけてきました。ふたりとも泣いて謝っていましたよ。お父さん、ごめんなさいって……」
 山崎は大股で葵に近づいた。憤怒の形相で葵を見下ろす。葵が殴られる、と思ったあたしは足を一歩踏みだそうとして、葵にきつい目で止められた。山崎は怒りで肩をわななかせている。喉からしぼりだした声は沸騰した感情でかすれていた。
「だから、女房や娘を許せ、というんですか? あの女が吾輩にどんな仕打ちをしたのか、あなたにも話したはずでしょう!」
「はい、聞きました。山崎さんの友人と不倫して……」
「それ以上口にすると、いくらあなたでも許しませんぞ!」
「奥さんを許せなく思う気持ちはよくわかります。それでも、許してあげてください。かつては愛しあってた女性なんですから。そのときのことを思いだしてください」
「思いだすだけの価値もないですな、あの女は!」
「じゃあ、どうして死ぬまで奥さんの写真を持ってたんですか?」
 虚をつかれた山崎は目を丸くした。パクパクと口を開くが言葉は出てこない。
「……どうしてそれを?」
「奥さんが、山崎さんの遺品を整理してたら、自分の写真が出てきた、とおっしゃっていました。おふたりの結婚式のときの写真です。わたしも見せてもらいました」
 山崎は黙りこむ。白い軍服が薄れて、青色のポロシャツに灰色のズボンという出で立ちに変わる。外見が若返り、二十代前半とおぼしき青年の姿になる。
「それに娘さんと撮った写真も……。小学校の入学式のときに撮った写真ですよね?」