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紅装のドリームスイーパー

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 葵は「なにがあったんですか?」とは訊いてこなかった。あたしが自発的に語るのを辛抱強く待っている。あたしは短い吐息をつく。翔馬の卑劣な行為を聞いて葵がどう思おうと、黙っていたらなんにも解決しない。恥だろうが体裁が悪かろうが、相手に事実を伝えて、はじめていっしょに考えてもらうことができる。まだ葵には打ち明けていなかったことを──小学五年生のときの事件を、あたしはあらいざらいぶちまけた。葵はうなずくだけでよけいな言葉を差しはさまなかった。そのかわり、あたしが語り終えると、きまじめな面持ちでこう尋ねた。
「芽衣、あなたがそこまでして薬袋さんを助けたいのはどうしてですか?」
「どうしてって……そんなの決まってるじゃない」
「言ってみてください」
「花鈴は翔馬の幼なじみだから放っておけない……」
「それだけですか?」
 葵の、刃物のような鋭さをこめた声色に、あたしはハッと息を呑む。なにか言い返そうとして口を開き──葵の断固とした漆黒の瞳とぶつかって、呼気を喉の奥に押し戻した。
「ほかにもあるんじゃないですか、薬袋さんを助けたいと思う理由が。よく考えてみてください」
「あたしは……」
 自分の胸のうちを探る。汚れた雪玉のような暗い情念が心の奥底にわだかまっている。あたしじゃない。もうひとりのあたし──翔馬が抱えていた、心のなかの暗黒。悔悟、罪悪感、無力感──何年ものあいだ埋もれていた腐臭を放つ宿痾(しゅくあ)が、表面を覆っていたかさぶたをはがれて、醜くただれた表面を露出させている。
 翔馬の心情を、あたしは裏側からのぞいていた。表裏一体。その言葉の意味を実感する。翔馬から距離をとったことで心のなかの暗闇にひと筋の光明が差し、いままで見えていなかったかたちがおぼろげに浮かびあがってくる。
 花鈴は幼なじみだから放っておけない──それはホントだ。でも、それだけじゃない。
 あたしのなかの異質な部分……翔馬の断片がうずく。
 いつも花鈴のそっけない態度にとまどっていた。彼女からうとまれているような気がして落ち着かなかった。
 花鈴を助けてあげれば、感謝して、翔馬を見直してくれるかもしれない──そう期待している。それが彼女との関係を劇的に改善する糸口になると思っている。もっとストレートな表現をすれば、彼女がなにもかもを許してくれると考えている。
 いまなら、わかる。翔馬は見返りを求めているんだ、花鈴に──
 首をゆっくりと横に振る。
 そう、翔馬は自分の都合ばかりを考えているかもしれない。そうであっても、もっと強い気持ちが翔馬のなかにはある。
 花鈴にそばにいてほしいと願う、この気持ち。
 自分でも気づいていない彼女への想い。
 花鈴を傷つけたこともあるし、泣かせたこともある。ときにはうっとうしいと感じたことさえある。けれども、いなくなってほしいと思ったことは一度もない。
 ずっとそばにいてほしかった。いままでと同じように、これからも、いつまでも。
 花鈴がいない世界を想像できなかった。
 そんな世界は、きっとホンモノの世界じゃない。ニセモノの世界なんかいらない。

 だから、翔馬は花鈴を助けたい。彼女のことを深く想っているから。

 あたしの揺れ動く心を、葵はどこまでくみとってくれたのだろう──あたしが口を開こうとすると葵は小さくかぶりを振り、つぶやくように言った。
「わかるんです、わたし。芽衣の気持ちが。わたしも……そうでしたから」
 あたしは眉をあげる。葵はつと目をそらし、書架のまわりをグルグルと駆けまわっている子供たちを見るともなしに見る。机で本を読んでいた青年は、ノートに鉛筆を走らせる中学生ぐらいの女の子に変わっていた。
「芽衣が話したんだから、わたしもお話ししましょう。わたしがドリームスイーパーになったのは、夢魔にとりつかれた幼なじみ──隣の家に住んでいた男の子を助けたかったからです。きっかけは芽衣と同じですね」
「……それで、その男の子は?」
「わたしと四人のドリームスイーパーで──ええ、そうです、あのときはわたしのほかに四人もいたんです──夢魔を滅ぼして、彼を助けだしました。でも、彼は……」
 葵は唇をかみしめた。ためらっている。そのさきの言葉を口にするのを。
 ややあって、ざらついた声で葵は言を継いだ。
「彼は死にました。いいえ、かぎりなく自殺に近い死に方でした。わたしは彼を悪夢から救えても、彼の心までは救えなかったのです。いまでも残念に思っています。彼を最後まで守れなかったことを……」
 葵はわびしげに片頬をゆがめて、
「彼がいなくなって、やっと自分の気持ちに気づいたんです。わたしは彼に恋していたんだって……」
 あたしは言葉もない。
 葵という少女の向こうに生身の女性の影が透けて見えるように思えた。失われた物語、取り戻せない過去、ひとりの少年に恋したひとりの少女──葵に問いかけたかった。どうやって押し寄せる絶望に立ち向かってきたのか、を。けれども、それを言葉にして口にするだけの勇気は、いまのあたしになかった。
 葵はためていた息を吐き、明るい表情を取りつくろう。
「人間は弱い存在です。弱いから、悪夢にとらわれ、夢魔につけこまれます。でも、弱さは決して罪なんかじゃありません。薬袋さんは──それをいうなら、わたしや芽衣も、弱さを抱えながら生きてるんです。少しずつでもいい。そうした弱さを克服して、はじめて人間は成長できるんです。わたしはそう思います」
「……大人だね、葵は。あたしはそんなふうに考えられないよ」
 葵は微笑んだ。どこか寂しげな、はかなさを感じさせる笑みだった。
「助けましょう、薬袋さんを。わたしとあなたとで」
 あたしは鷹揚(おうよう)にうなずく。いくつもの決意をこめて、ゆっくりと。

 山崎はなかなか現れなかった。
 無為に時間が過ぎていく。どれぐらい時間が経ったのか──せいぜい三十分程度かもしれないし、数時間かもしれない。時間感覚はとうに失せていた。
 待ちくたびれて、あたしは書架の谷間をうろつく。白い背表紙の本が棚に並んでいる。目の焦点が合うと、それまでは文字らしき黒い線だったものが分解して、無意味な記号の集合になる。
 なにも役に立たないと知りつつ、一冊の本を手に取る。真っ白な表紙。タイトルもない。背表紙も真っ白だ。ページをめくる。整然と整列していた黒い線がのちうち、乱れ、紙面から逃げだす。あっという間にページは白くなった。なにも書かれていない。次のページをめくる。文字が逃げる。まるで巣をあばかれた虫のように。
 嘆息。本を閉じようとしたら、目の前の棚にルウが寝転がっていた。あたしをじっと見つめ、小さな牙をのぞかせて笑う。
「どうやら本が読めないようだね?」
「夢の世界の本だからね」
「違うな。本が読めないのはきみが本気で読もうとしないからだ。さっきも言ったはずだ。夢の世界は精神力の強さが反映される世界だ、と。目を凝らして、本を読んでみたいと強く念じたまえ。精神力を強めるいい鍛錬になるぞ」