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紅装のドリームスイーパー

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 いったい、おれの母親は沙綾さんになにを吹きこんだのだろう?
 それにしても、病院に来てまで息子の学校での成績を吹聴(ふいちょう)しなくてもいいだろうに……。おれの母親には恥という概念がないのだろうか?
 おれが返答に窮していると、沙綾さんの切れ長の眼がうるんできた。気のせいか、さっきまでと目つきが違うように思えた。彼女のまえから逃げだしたくなったのはこれが初めてだ。
「いえ、その……おれは大丈夫ですから。うん、まったく問題ありません。平気です。全然」
 たぶん、説得力はゼロだったろう。けれども、沙綾さんは「そうですか」と首を縦に振って、あっさりと矛先を収めてくれた。
 おれはホッと安堵する。と同時に、もしかしたらこれを機会に勉強を教えてくれたかも、とちょっぴり残念な気持ちもわき起こった。
 沙綾さんは興味深げな顔つきでおれにひたと視線を据えている。まるでリトマス試験紙みたいにたちまち上気した顔をうつむかせて、おれは浅い呼吸を繰り返す。
 いまだ、と思った。
 沙綾さんに訊くのなら、タイミングはいましかない。
 テーブルの下で両方のこぶしを強くにぎりしめ、勇気を奮い起しておもてをあげる。
 沙綾さんの黒い双眸と正面からぶつかった。首を固定して視線をそらさず、おれは一語一語を区切るような語調で彼女に尋ねた。
「あの……沙綾さんはペットを飼ってませんか?」
「え?」
 とうとつな質問に面食らったのは、今度は沙綾さんのほうだった。目をパチクリさせてとまどいつつも、落ち着いた声色で答える。
「はい。うちにはペットがいます」
 やっぱり!
 おれは確信を深める。テーブルの下で、小さくガッツポーズ。
 おっとりとした雰囲気、知りあったばかりの女性、家ではペットを飼っている──条件はそろった。もうまちがいない。
 葵の現実世界の姿は──沙綾さんだ!
 おれは興奮にうわずった声でさらに問いを重ねた。
「ペットというのはネコですよね? 名前はルウじゃないですか?」
 ズバリと言い当てたおれのセリフにびっくりして、沙綾さんは目を丸くする……と予想していたのに、彼女はキョトンとした面持ちになった。想定外の反応に、おれの興奮は瞬時に凍結して、あとかたもなく雲散霧消する。
「……あれ?」
「ペットは飼っていますが、うちにいるのはイヌです。ゴールデンリトリバーですよ」
 沙綾さんは小首をかしげて、
「ネコは飼ったことがありません。わたしの母が生理的にダメなんです。ネコもかわいいと思うんですけど……」
「沙綾さんは葵じゃないんですか?」
「はあ?」
 沙綾さんはかたちのいい眉をひそめた。葵の名前を出したのはマズかった。ほかの女性と勘違いされている、とわかって、普段は温厚な沙綾さんが珍しくムッとしている。
 おれの顔はどんどん青ざめていった。さっきから赤くなったり青くなったりして、いまにも顔面の血管が破裂しそうだ。
「……すみません。なんでもないです。忘れてください」
「葵さんというのは新城さんのお知りあいのかたですか?」
 追及されてしまった。おれは自分のうかつさを呪う。
「その……ネットで知りあったんですけど……葵というのはそのひとのハンドルネームでして……もしかしたら沙綾さんのことかもしれないと思ったもんですから……」
 いかにもウソくさい言い訳がますます墓穴を掘った。沙綾さんの眉が逆立つ。口を開きかけたが、おれの世にも情けない顔を目(ま)の当たりにして、思いとどまってくれたらしい。小さく笑って、きれいさっぱりと洗い流してくれる。
 なんて心の広い女性なんだろう……。
 駿平にとっての女神が菜月ならば、おれにとっての女神は沙綾さんだった。テーブルに額をこすりつけて、ありがたく彼女を拝んだ。
「インターネットもいいですけど、勉強もしっかりとやってくださいね」
 やんわりと説教された。それさえもが、いまのおれには女神のお告げに聞こえた。
 沙綾さんのありがたいお言葉を片言隻句(へんげんせっく)も聞きもらすまいと両耳に全神経を集中しながら、おれは振りだしにもどった謎を心のなかで何度も自問する。
 沙綾さんが葵じゃないとすれば、葵は誰なんだろう、と。
 花鈴や菜月でないことは確かだ。ほかにおれが知っている女性といったら……まさか神崎先生? それとも、あのグラビアアイドルっぽい英語の先生とか? クラスメイトの誰かという可能性だって捨てきれないが……。
 いや、どれも違うような気がする。とすると、ほかに候補者は……。
 ウーム、わからない。
 ずっとわからないままかもしれない。葵が教えてくれないかぎりは……。