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紅装のドリームスイーパー

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 沙綾さんの学校は女子校だから野球部がない。甲子園とはまったく縁がないから、野球の応援に行けるのが少しばかりうらやましいと思ったらしい。「今年は行けるといいですね、甲子園」と期待をこめて言い添えたあと、
「わたしは去年まで箏曲部(そうきょくぶ)にいたんです。これでも関東地区のコンクールで銀賞をもらったんですよ」
「……すみません。ソウキョクってなんですか?」
 沙綾さんは軽やかな笑い声を洩らして、ソウキョクは「総局」だと思っていたおれの的外れな想像を「それ、違いますよ」と優しく訂正する。
「箏曲というのは琴を弾くことです。箏曲の流派には山田流と生田流があって、わたしの学校は生田流でした……」
 そのあと、沙綾さんが箏曲のうんちくを披露してくれた。正座をして琴をつま弾く彼女の清楚な姿が目に浮かび、無意識のうちに口許が緩んだ。Tシャツを着ていると、これまでははっきりとわからなかった胸の豊かな隆起がやたらと目立って、いやがうえにもおれの目線を惹きつける。
 テレビを見ていたお年寄りたちがゾロゾロと連れだって部屋を出ていった。テレビのなかで顎の張った中年の男性アナウンサーが、日本列島に接近しつつある台風の情報を伝えている。台風の進路を示す予報円は見事に日本列島を縦断していた。今週の後半は大荒れの天気になりそうだ。
 しだいに口数が減って、ロウソクの火が消えるように会話が途絶える。沙綾さんはフッと吐息をついた。
「……容体はあまりよくありません」
 長いまつ毛を震わせて、沙綾さんが言う。誰のことなのか、あえて聞き返すまでもない。
「わたし、小さいころからおばあちゃんっ子でした。いつも甘えてばかりで……怒られたことがほとんどないんです」
「ぼくとは正反対ですね。祖父にも祖母にも怒られてばっかりでしたよ。近所でも有名な悪ガキでしたから」
 沙綾さんがクスリと笑う。それから、柔和な光を宿した瞳でおれを包みこんで、
「……よろしかったら、祖母に会ってあげてください」
 少し間を置いてから、おれは「はい」と返事した。

 病室には患者以外、誰もいなかった。沙綾さんのご両親はいったん家に戻っているらしい。あたかもそこだけが隔絶した別世界であるかのように、白いカーテンに囲まれたベッドが蛍光灯の淡白な光のシャワーのなかに埋もれていた。
 沙綾さんが静かにカーテンをめくる。おれを招き入れた。おれはカーテンの内側に入る。かすかな薬品臭が鼻についた。
 ベッドには幸恵さんが横たわっていた。鼻と口を覆う水色の酸素マスク。腕から伸びた点滴のチューブと透明な薬液がつまったパック。赤い数字を点滅させている無骨なモニタ。そして、目をつぶり、眠っている幸恵さん。
 寝間着から露出した肌は、陽に焼けた紙にそっくりの渋い色で、網目のような紫色の静脈が太く浮きでていた。落ちくぼんだ目の周りには青黒いクマができている。ゆっくりと反復する大きな呼吸音は、さながら岸壁に打ち寄せる波の音のようだった。
 おれはしばらくの間、その場に凝然と突っ立って、ベッドのなかの老婦人を見つめていた。言葉が出てこない。縮んでいく生命の生々しい情景がおれの五感を麻痺させていた。
「おばあちゃん。新城さんがお見舞いに来てくれましたよ」
 沙綾さんがそっと呼びかける。むろん、反応はない。すっかり肉のそげた頬がわずかに動いたような気がしたが、おれの錯覚かもしれない。
 沙綾さんが軽く唇をかみしめ、おれに目顔で呼びかけを促す。おれは肺のなかでくすぶっていた息を吐きだした。まるで脳の言語中枢が頭蓋骨のなかから逃げだしてしまったかのように、言葉らしい言葉が心の表層に浮かんでこない。ただよっているのはぼんやりとしたイメージだけ。ほがらかに笑って昔を語る幸恵さんの輪郭がまぶたの裏にちらついていた。
 時系列を無視して次々に去来する雑多なイメージが、胸の奥にぽっかりと口を開いた暗渠(あんきょ)へと渦を巻いて流れこんでいく。イメージが溶けてなくなると、凝縮された思い出のかけらがまぶしい光を放ちながら、夜空に咲く大輪の花火のように立ちのぼってきた。
 その瞬間、幸恵さんがおれに語りかけてくれたような心持ちがした。
 よく来てくれましたねって。
 不器量なおれが思いつくメッセージなんて、ただの気休めかもしれない。苦しまぎれの社交辞令かもしれない。
 それでも、おれは励ましの言葉と感謝の言葉を幸恵さんに捧げた。
 沙綾さんはそれを穏やかな表情で聞いていた。なにも口を差しはさもうとしない。途切れがちで、たどたどしい言い方だったけれど、おれはセリフを最後まで言い終えることができた。
 幸恵さんは眠っている。苦しげな様子はない。安らかな寝顔だ。酸素マスクや点滴がなければ午睡の最中だと思ったことだろう。苦痛に悶絶する姿だけは見たくないと思っていたから、それだけは安心できた。
 沙綾さんのあとについてベッドのそばを離れるとき──幸恵さんがかすかに微笑んでいるようにおれには思えた。

 デイルームに戻ると、テレビはバラエティ番組を放送していた。誰もいない部屋のなかで、目が痛くなるような原色の服を着たタレントの、けたたましい笑い声がうつろに響く。その笑い声がとても耳障りで、電源を切ってやろうとテレビのリモコンを探す。おれが見つけだすまえに沙綾さんが雑誌のラックに立てかけてあったリモコンを手にとり、いくつかチャンネルを切りかえてから、うんざりしたようにため息をついてテレビの電源を切った。
 どちらともなくテーブルにつく。シンと静まり返った室内は、口を開くのがためらわれるような、ひどく気まずい空気がよどんでいた。
「ありがとうございました」
 凝り固まった空気を解きほぐして、沙綾さんが頭を下げる。
「いや……そんな、お礼を言われるほどのことでも……」
 とたんにしどろもどろになるおれを、沙綾さんは小さな子供を見守る母親のような眼差しで見つめた。
「新城さんのおばあさん、もうすぐ退院できるそうですね。わたしも安心しました」
「はあ……ありがとうございます」
 われながらなんとも紋切型(もんきりがた)な受け答えだな、と思った。軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)な会話なんて、どだいおれにはムリだ。沙綾さんみたいな女性のまえではなおさら口が重い……。
 ホントに沙綾さんはおれのことをほめていたのだろうか?
 にわかに恥ずかしくなってきて、テーブルの上に視点を落とす。視界の端に白いTシャツに包まれた沙綾さんのふくよかな胸がちらつく。こんなときでも特定の部位に注意が集中してしまう自分が情けなかった。そんなおれのささいな自省に気づいているのか、いないのか──沙綾さんがいたわるような口調で話しかけてきた。
「勉強のほうはどうですか?」
「……は?」
 だしぬけの問いかけに面食らい、おれはすっとんきょうな声を出す。沙綾さんは意味ありげな含み笑いを洩らして、
「新城さんのお母さんから聞きました。学校の勉強がたいへんだそうですね」
「……うわ」
 あっという間に顔面から血の気が引いていく。
 やられた。敵は祖母だけじゃなかった。もっと強敵がいたのだ。
 おれの母親という、最強最悪の敵が!