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紅装のドリームスイーパー

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Real Level.10 ──病院


 おれには今日中に行かなければならない場所がもう一箇所あった。
 病院。
 島幸恵さんが入院していて、沙綾さんがそばに付き添っているはずの、人生の交差点のようなところ。昨日、「明日も来ます」と約束したからには、おれは行かなければならない。
 それに……沙綾さんに会って確かめたいこともあった。
 梁川がマンションのエントランスホールまでおれを送っていく、と申し出た。
 エレベーターの箱のなかで、梁川がポツリとつぶやくように言った。
「夢魔は私が管理するゲシュタルトの核に到達した」
「被害は深刻なのか?」
「いや、それほどでもない。いま、夢魔は自分たちの要塞を築いている最中だ。今夜あたり完成するだろうな」
「……で、完成したらどうなる?」
「夢魔を斃(たお)すのがより困難になる。つまり、ゲシュタルトが破壊される危険性がいま以上に高くなる」
「おれと葵がなんとかするしかないわけだな?」
 梁川は痩せた肩をすくめた。エレベーターが一階に着く。スーパーのレジ袋を抱えた親子連れと入れかわりに箱を降りて、エントランスホールを横切っていく。「じゃな」と手を振るおれを目で引きとめて、梁川は苦しげな息を吐いた。
「要塞の防御を突破して夢魔のもとにたどりつくためには、なにか手立てを考えなくちゃならない。やみくもに突入しても手痛いしっぺ返しを食うだけだ」
 おれは梁川をじっと見つめる。不安げな顔をした彼女は、ごく普通の人間──よるべのない身を嘆く天涯孤独な少女に思えて、おれの保護欲をいたくかきたてた。
 ……なんでも守ってやろうとするんだな、おれは。
 そんな自分の節操のなさに半分あきれながらも、梁川の手をギュッとにぎり、
「自分の責務を果たせばいいんだろ? やってやるよ、おれは」
 梁川が目を見張る。それから、おずおずと笑みを浮かべ、おれの手に自分の手を重ねた。
「ありがとう。感謝する」
 面と向かって謝意を口にされ、おれは急に面映(おもは)ゆくなった。照れ隠しに取りつくろったおれの笑顔は、きっとできそこないの仮面みたいに見えたことだろう。
 火照った頬を手でさすりつつ、梁川のマンションをあとにする。
 そのまま、自転車をこいでまっすぐ病院へ向かった。
 左右から押し寄せてくる街の風景は、色あせた金色の陽の光のなかにどっぷりとつかっていた。

 祖母は元気だった。それどころか、元気を持てあましていた。
 孫の顔を目にして破顔一笑する。今日は病室に誰もいなかった。おれの両親はさきほど帰ったところらしい。ひと口サイズに切ったリンゴがサイドテーブルの白い皿の上に並んでいた。祖母が「食べなよ」としきりに勧めるので、遠慮なくリンゴを頬張る。リンゴの甘酸っぱい果肉がひりついた喉をうるおしてくれた。
 こちらから話を向けたわけでもないのに、おれの本当の目的を薄々感づいているのか、祖母のほうから島幸恵さんの様子を話してくれた。看護師からのまた聞きだからはっきりとしないが、どうやら具合はあまりよくないようだ。今夜は家族が病院に泊まりこむらしい。沙綾さんもこの病院で一夜を過ごすのだろうか、と考えていたら、「沙綾さんは学校があるから泊まりこんだりしないそうだよ」と教えてくれた。さすがはおれの母親の母親である。妙にカンが鋭いところはそっくりだ。
「沙綾さん、桜玉(おうぎょく)女子学院の生徒だってね?」
 と、祖母。おれは沙綾さんの学校がどこなのかまでは知らない。制服で学校がわかるほど、制服フェチでもない。「さあ」と答えると、祖母はなんとも神妙な目つきになって、おれをジロジロと品定めする。
「幸恵さんも、沙綾さんのお母さんも、桜玉の出身だっていうじゃないか。親子三代、桜玉だなんて、たいしたもんだね」
 桜玉女子学院といえば、県下ではトップクラスの進学校だ。沙綾さんがその学校の生徒だというのは、まあ、彼女の楚々とした立ち居振舞からなんとなく納得できる。幸恵さんも同じ学校だったというのはちょっと意外だけど。そういえば、自分も若いころはセーラー服を着ていた、と幸恵さんは以前に言っていた。セーラー服というのは、桜玉女子学院の制服のことなのだろう。
 突然、なにを言いだすんだ、といぶかしく思っていたら、祖母はとんでもない発言をぶちまけた。
「勉強、沙綾さんに教えてもらえば? いまのままだと息子の成績が心配だっておまえの母親がぼやいてたよ」
「……な?」
 おれは目をむく。祖母はダブついた顎の肉を揺すってヘラヘラと笑う。どこまでが冗談なのか、祖母の真意をはかりかねたが、目を輝かせておれの返事を待っているところからすると案外、真剣なのかもしれない。
「迷惑だよ、そんなの。沙綾さんだって大学受験があるんだし」
「そうかい? おまえのこと、ほめてたけどねえ。優しいひとですねって」
「へ?」
 あたかも空から隕石が落ちてきたような、脳髄まで揺さぶる激しいインパクトを受けた。
 おれのことをほめてたって? あの沙綾さんが? マジで?
 祖母がここぞとばかりにベッドから半身を乗りだして、おれの耳元に甘くささやく。
「頼んでみなよ。勉強、教えてくださいって。おまえだって教えてほしいんだろ?」
「そりゃあ、教えてくれるんなら……」
 おれはブルブルと首を横に振る。危ない、危ない。一瞬、本気で沙綾さんに頼みこんでみようかという気になりかけた。いくらなんでも、そこまで厚かましくはなれない。同じ学校の先輩やクラスメイトならまだしも、偶然知りあっただけの沙綾さんにそんなことをお願いしたら一発で嫌われそうだ。それにこんなおれにだっていっぱしの矜持(きょうじ)はある。成績が悪いから勉強を教えてくれと頼みこむなんて体裁が悪すぎる。赤っ恥もいいところだ。
 まだなにか不穏な計画を画策している老獪(ろうかい)な祖母の包囲網をすりぬけて、おれは三階の病室に足を向けた。
 三階のデイルームで沙綾さんを見つけた。淡い緑色のテーブルに片肘をついて、所在なげにテレビをながめている。周りには誰もいない。ひとりのようだ。
 セーラー服の制服姿ばかり目にしてきたので、白のTシャツにブラウンのキュロットスカートというラフな普段着の沙綾さんは、おれの目にかえって新鮮に映った。
 おれを認めて沙綾さんがふっくらとした微笑を浮かべる。テレビを見てケラケラと笑っているお年寄りたちのジャマにならないよう、控え目な声であいさつして、沙綾さんの真向かいの席に腰を下ろす。沙綾さんは給茶機から冷たいほうじ茶を紙コップに注いで、おれのまえにそっと置いた。さきほどリンゴをついばんできたので喉は乾いていなかったが、ありがたくほうじ茶をちょうだいした。
 沙綾さんは笑顔を崩さない。でも、どこか笑みに張りがなかった。疲れているようには見えないが、それでもここ数日で心労がかなりたまっているはずだ。勉強も手につかないのかもしれない。そんな彼女に勉強を教えてくれ、だなんて……とてもじゃないが口にできない。
 なにをしゃべったらいいのか、とっさに思いつかなかったので、あたりさわりのない話題──午前中に野球の練習試合を観戦してきたこと──をポツポツと話した。沙綾さんは笑みを絶やさず、ときおり相槌を打って耳を傾けてくれた。