紅装のドリームスイーパー
コップに向かって「消えろ」と強く念じる。
ここにコップはない。あると思っているのはおれの幻覚だ──
意識を集中してみたが、もちろんコップが消滅するようなことはなく、焦茶色の液体を満たした硬質な質感は依然としておれの手のなかにあり続けた。だんだんとバカらしくなってきて、ためていた息を吐きだす。このコップを消すためには世界中の人間の認識を改めなければならないのだろう。海のなかに落ちた一滴の泥水は、海全体を汚したりはしない。海の色を変えるには大量の泥が必要だ。それを、おれは感覚的に理解する。
「話を続けよう。早見菜月は二年前に交通事故で亡くなった。この世界では彼女の死が認識されたのだ。だから、彼女はこれまでずっと死んだままの状態だった。認識がくつがえるようなことは通常ありえない」
おれは麦茶を飲み干し、からになったコップをテーブルに置く。梁川の説明の道筋がなんとなく見えてきた。部屋の温度が急激に下がったような錯覚を覚え、おれはブルッと身震いした。
「……その認識が改変されたということか? 菜月は死んでいない、と?」
「そうだ。早見菜月が死んだという認識は書きかえられ、いまも生きてる、と認識されるようになった。死んだはずの彼女が生き返ったのは、現実が上書きされたからだ。それができるようになるためには、ふたつの条件がいる」
梁川は白い喉を鳴らして自分の麦茶を飲む。コップを持っていない左手の人差し指をおれの面前にスッと立てて、
「ひとつ。個々の人間に現実を改変する力はない。そんなことが可能なのは、人間の認識に干渉できる私のような存在か──夢を喰らいつくす夢魔だけだ」
「菜月が生き返ったのは、夢魔が現実を改変したからなんだな?」
「まあ、そんなすぐに結論に飛びついたりしないで、私の説明を最後まで聞きたまえ。さっきも言ったように、人間じゃないものを挿入するのは造作ない。いまの私は梁川澪という人間のふりをしてるが、私の本質は夢の世界のドリームマスターだ」
「そうだな。あんたは人間じゃない。ホントは黒ネコだしな」
「黒ネコとも違うが……まあ、いまはそれを議論するのはやめておこう。私は人間じゃないが、早見菜月は違う。彼女は人間だった。自己認識の能力を持つ、ひとりの人間だ」
「……それで?」
「早見菜月を生き返らせるとしよう。すると、なにをしなければならないか? まず、この世界の人間の認識を改変しなければならない。といって、梁川澪のように挿入するわけにはいかない。そんなことをすれば見かけは人間だが、自己認識の能力が欠如した、フランケンシュタインの怪物みたいな存在ができあがるだけだ。ユニークな個人である早見菜月を生き返らせたことにはならない」
おれの困惑の表情を見て、おれが完全に理解していないことを瞬時に看破したのだろう──梁川は苦笑を浮かべて、声の調子を柔和なトーンに変えた。
「こう言えばわかるかな? 自己認識の能力というのは、いわば魂のようなものだ。自分を意識することで、はじめて人間は人間たりえる。魂がなければ人間じゃない。そして、ここが肝心なところだが、魂を無から創造することは誰にもできない。私にもムリだ」
「そうか、現実世界に挿入して菜月を生みだしても、魂がないからそいつは人間じゃない、ということなんだな?」
「まあ、そういうことだ。早見菜月を完全に生き返らせる──彼女の自己認識の能力までそっくり復活させるとなると、挿入ではなく上書きするしかない。さて、ここで問題に答えてもらおうか。上書きするために不可欠な要素とはなんだと思うね?」
おれは顔をしかめる。こういう謎かけは好きになれなかった。おれがあれこれと考えあぐねていると、見かねた梁川がヒントを出してくれた。
「考えみたまえ。挿入するのではなく、上書きするんだ。最初からあるものを書きかえるのが上書き、だよ」
「なにがなんだか、おれにはさっぱり……」
そのとき、おれはこの世界から花鈴がいなくなっている事実に思いいたった。ドミノ倒しみたいに、たちまち接点がひとつにつながっていく。自分でも顔が青ざめるのがはっきりとわかった。
「まさか……そういうことなのか? 花鈴と菜月が入れかわった?」
梁川はゆっくりと麦茶を飲み干すと、もう一度立ちあがって、冷蔵庫から麦茶の入った容器を取りだした。おれのコップと自分のコップに麦茶をなみなみと注ぐ。コップが細かい汗をかいていた。水滴がすべり落ち、テーブルにささやかな水たまりをつくる。カーテンのない窓から初夏の熱をまといつかせた陽射しが流れこんできて、テーブルに指を組んでこちらをながめる梁川のシルエットを後光のように縁取った。
「正確には入れかわったわけじゃない。いままで薬袋花鈴であった人間が、早見菜月として認識されるようになった、ということだ。現実が上書きされたんだよ。上書きされた結果、薬袋花鈴という人間は存在しなくなった」
おれは麦茶が入ったコップをつかんだ。指先に触れる湿り気がやけに気色悪かった。麦茶を一気に半分ほど飲みくだす。冷たいはずなのに、なぜか灼熱の鉄のかたまりを呑んだような気がした。
梁川が左手の人差し指に続き、中指を立てた。
「条件のふたつ目。現実を上書きするためにはその素地となる事物──この場合は薬袋花鈴という人間──が必要だ。それも、死者ではなく、生きた人間でないといけない。上書きされる人間も自分自身の認識を改変しなければならないからな。その点、死者は自分を認識できないから、上書きは不可能だ」
おれがちゃんと聴いているのを確認して、梁川は淡々と説明を続ける。
「人間の認識に干渉する能力を持つ夢魔と、素地を提供する人間──このふたつがそろってはじめて、現実を改変するための必須条件が整う。薬袋花鈴はいうなれば、絵具で塗りつぶされるためのキャンパスみたいなものだよ」
そのたとえが気に入らなかったおれはフンと鼻を鳴らして、梁川をにらんだ。梁川は室内のあちこちへ視線を遊ばせ、太い三つ編みの髪の束をけだるげにいじくっている。梁川の無感動な声がおれの耳にうつろに響く。
「どうして夢魔が夢を喰らうのか、きみにはまだ話していなかったな」
口をつぐんだままのおれの態度を、梁川は肯定的な意思表明と受け止めたようだ。梁川は麦茶で喉をうるおすと、立板(たていた)に水を流すようにスラスラとまくしたてた。
「夢魔には人間の認識に干渉する能力はあっても、自己認識の能力はない。思いだしてくれたまえ。夢魔はもともと、夢の世界に残留してた悪夢の残滓が凝り固まって、ついには独自の人格(パーソナリティ)を得るまでにいたったものだ。が、自己認識の能力──魂はひとりでに形成されたりしない。夢魔には魂がないのさ」
「ヤツはおれたちを攻撃してきたじゃないか。あんたのゲシュタルトを破壊するのがヤツの目的なんだろ? それって、夢魔には意志があるってことじゃねえか。意志があるんなら、自己認識だってあると思うけど?」
「フム。確かにきみの言うとおり、人格(パーソナリティ)は意志をともなう。けれども、意志と自己認識はまったくの別モノなんだよ」
「別モノって?」
作品名:紅装のドリームスイーパー 作家名:那由他