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紅装のドリームスイーパー

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 駿平が菜月を見つめる目つきは、女神の降臨を目撃した神官のそれに近かった。
 菜月はにっこりと微笑み、テーブルに半身を乗りだして駿平に甘くささやく。
「あたしがおカネ出してあげるから、好きなもの食べなさいよぉ」
「おい、そこまでしてもらうのはさすがに……」
「ありがとうございます! ごちそうになります!」
 おれの固辞をさえぎって、駿平が叫ぶように感謝の言葉を口にする。座席のなかで腰を折り、テーブルにゴリゴリと額をこすりつけている。いまのこいつには菜月がホンモノの女神に思えるのだろう。おれはさしずめ弟の幸せを妨害する悪魔というところか?
 大樹があきれたような視線を菜月に送るが、彼女のほうは年下の男の子から崇拝されてまんざらでもないように頬を緩めている。ぽっちりとした笑窪がとてもかわいい。思わず、見とれてしまう。駿平の隣で身を縮めていた森が「裏切り者め」と小声でなじった。菜月がクスクスと笑う。その笑い声がとても耳に心地よかった。
 大樹と森、駿平の三人はそれぞれ飲み物をとりに店内のドリンクバーへ行った。おれと菜月のふたりがテーブルに残る。菜月が小動物みたいによく動く双眸をおれにピタリと据える。微笑みともくつろいでいるだけとも受け取れる、なんとも微妙な表情。コップの水を飲み、肩にかかる髪を手で払う。たったそれだけの仕草であっても、じっと見入ってしまう。おれの頭のなかで、記憶の迷宮からさまよいでてきた虚像と眼前にいる菜月の実像が二重映しになって、いわくいいがたい違和感を増幅させる。
 菜月が頬杖をついておれを見つめる。彼女の視線をまっこうから浴びたおれは、全身の筋肉を緊張で硬直させていた。生き返った死者と対面するのはなんとも奇妙だ。いや、正確には死んだわけじゃない。死なずに済んだ、というのが正しいのか。この世界の菜月はあの交通事故に遭わなかったのだから。
 おれの心情を顔つきや所作から読みとったのか、菜月がかわいらしく小首をかしげて、
「さっきからなにぃ? あたしの顔になんかついてるぅ?」
「いや……なんでもねえから」
 おれはつくづく言い訳やごまかしが下手だ。今回もさらりと受け流したつもりだったのに、つっけんどんなおれの物言いがかえって気になったのだろう、菜月は鼻にシワを寄せ、容疑者を追及する刑事のような疑り深い口調で言った。
「なんだか様子がヘンなんだよねぇ。いつもの翔馬らしくないっていうかぁ。大樹とケンカでもしたのぉ?」
「だから、してねえよ」
 昨日、菜月の墓のまえで殴りあったけどな、と内心で付け加える。そういえば、あのお墓はいまごろどうなっているのだろう? きっと菜月の名前は墓碑銘から消えているのに違いない。
「ヤだ! もしかして、怒ってるぅ? あれかな、パスタのナポリタンしか食べれないから機嫌が悪いとかぁ?」
「おれ、好きだから、ナポリタン。大好物」
「足んない分はあたしが出してもいいのよぉ? なんか翔馬にはいっつもおごってもらってばかりいるしさぁ」
「謹んでお断りします」
「えー、遠慮しなくてもいいのにぃ」
「おれは猛烈にナポリタンが食べたいの!」
 菜月が探るような眼差しでおれの顔面をなめまわす。平然とした表情を装ったつもりだったが、自分の演技力にあまり自信は持てない。おれは情けないほどの小心者だ。
 菜月が口許をキュッとつりあげて微笑む。その笑顔が心にジンワリとしみる。まるで食べ物が消化酵素で分解されていくように、おれの胸の奥底にこびりついていた真っ黒な汚泥が、彼女の微笑みに触れて無味無臭のかけらへと昇華していく。すると、いままでになく心が身軽になった。いつも悩まされてきた持病がついに快癒したみたいな、そんな晴れがましい気分になれた。
 いいかげんにしろ。自分をあざむくのはもうやめるんだ。
 おれはいま、この世界をとても居心地よく感じている。
 これで救われた、とおれは信じてもいない神に感謝している。
 いっそのこと、このままでもいいとさえ、おれは思い始めている……。
 おれが黙りこんでいると、菜月は小さく首を横に振って、もう一度、コップから水を飲んだ。ガラス窓の向こうに視線を投げ、ひとりごとのようにポツリとつぶやく。
「地区予選が始まったら応援してね」
「え?」
 菜月はとおりすぎていくクルマや通行人を物憂げにながめながら、
「絶対に甲子園、行くから。だから、翔馬も応援して」
「……ああ」
 歯切れの悪いおれの態度に業を煮やしたのか、菜月が身体ごと正面に向き直り、真顔をつくる。
「あたしたち、これからも三人いっしょだよ」
「…………」
 いつもの間延びした語調が抜けている。菜月は真剣そのものだった。
 菜月がなにを言わんとしているのか、なんとなく察しはついた。自分が原因でおれと大樹が険悪な仲になるのを彼女はおそれているのだ。一方に大きく傾いたシーソーからおれが飛び降りてしまうのではないのかと危惧している。
 菜月にはおれのことがそう見えるのだろう。おれを敗者か脱落者だと思いこんでいる。そうじゃない、それは勘違いだと言ってやりたかったが、実際に大樹と疎遠になってしまった苦い経験がおれの口をふさいだ。
 これからも三人いっしょ、か。
 そうでありたいと願う気持ちはおれにもあった。が、それを言うなら、三人じゃなくて四人だ。
 ここにいない幼なじみ──花鈴も入れて。
 大樹たちがドリンクを持って戻ってきた。菜月が満面の笑みで三人を迎える。大樹は等分の笑みで、森は悪役俳優のような薄笑いで、駿平はうっとりとした目つきで、菜月の笑みを吸収する。
 大樹が身振り手振りを交えて今日の試合を熱く語る。ピッチングの調子は良かったようだ。キャッチャーを務めていた三年生と監督の両方から「今日はとてもいい出来だ」と手放しでほめられた。駿平は目を輝かして大樹の言葉に耳を傾けている。
 菜月が試合の内容について、大樹とは違う視点から分析した結果を披瀝(ひれき)する。聞き慣れない野球用語が菜月の口からポンポンと飛びだしてきて、おれは面食らう。中学時代の菜月は野球のことなんてまったく知らなかった。ストライクとボールの違いすら理解していなかったはずだ。それが、いまはこうして野球部のマネージャーをそつなくこなしている。きっと大樹のために猛勉強したんだろう。いまさらながら、ふたりのあいだで交わされる目配せの意味を思い知った。
 料理が運ばれてきた。食べながら、大樹がしゃべる。こんなに饒舌な男じゃなかったような気がしたが、おれの記憶はいまやてんであてにならない。
 二年。おれの知らない空白の二年間がこの世界には存在する。おれはその二年間を共有していない。ハナシを聞いて想像するだけだ。なんだか浦島太郎にでもなったかのような心持ちだった。
「地区予選も応援してくれよな?」