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紅装のドリームスイーパー

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 女の子の声がした。たぶん、菜月の声だ。大樹がベンチに視線を流して明るい表情をつくる。「リア充め、爆発しろ」と小さくののしる森の声がおれの耳に届く。
 一回裏の育学館高校の攻撃が始まる。小柄な一番打者がバッターボックスに収まる。大樹が投げる。ストライク。バッターが眉をひそめている。
 テンポよく投げる大樹の長身をながめながら、おれは思案に暮れる。
 花鈴がいなくなったこの世界──
 彼女がいない、ということを除けば、この世界はなにもかもが調和に満ちている。
 菜月は生きている。大樹もおれたちと同じ高校に進学して、野球に打ちこんでいる。大樹の念願である甲子園出場は決して見果てぬ夢なんかじゃなく、すぐにでも実現できそうだ。大樹と菜月は恋をしている。おれと大樹はいまでも友達だ。
 うまくいっている。イヤになるぐらい、全部、丸く収まっている。
 誰も悲しんだりはしていない。誰も泣いたりはしていない。
 花鈴がいなくても、最初から存在していなかった少女のことを想って悲嘆に暮れる人間はいない。
 おれ以外は。
 花鈴の笑顔を思い起こす。痛みに耐えるような、自分には笑うことが許されないとでも思いこんでいるかのような、どこか遠慮がちな微笑み。保健室に行く途中の廊下でひらめかせた、自然な感情が発露したときの、あの屈託のない笑顔──そして、雨に濡れた頬をすべり落ちていった涙の透明な粒。
 夢魔。
 花鈴は夢魔に魅入られている。あるいは、花鈴が夢魔に魂を捧げたのか。どちらでも同じだ。
 この世界は、巧妙につくられた世界なのだ。
 でも、とおれは思い返す。大樹も菜月も、この世界に満足している。おれ以外の人間は全員、満足している。夢の世界でドリームスイーパーとなったおれだけが、この世界からつまはじきにされている。
 受け入れればいいのか、この現実を?
 そうすれば、なにもかも忘れておれも気が楽になるのか?
 だけれど、花鈴はどうなるんだ?
 誰が彼女を救うんだ?
 大樹は快調なピッチングを続けている。
 最初のバッターは簡単に三振をとれた。二番打者はボテボテのピッチャーゴロ。三番打者はうまくボールを打ち返したが、パワーが足りずにレフトフライ。三者凡退で一回裏の攻撃は終わる。
 拍手と歓声。芝生席に照りつける金色の陽射しが肌をジリジリと焦がす。駿平は手振りで大樹のスローイングをマネしている。ポテトチップスを食べつくした森は、喉を鳴らしてペットボトルのお茶を飲んでいる。
 脱色した世界に、おれはとらわれている──

 正午を少し過ぎたころに試合は終わった。
 結果は5対1で城南高校の勝ち。大樹は六回で降板。そのあとを継いだ三年生のサウスポーが七回裏に三者連続のヒットを浴びて1点を失ったが、あとはピンチらしいピンチもなかった。完勝といってもいいだろう。それぐらい、試合の内容はよかった。普段は学校で物理を教えている、自称九州男児でごつい体格の監督は、いつになく強面(こわもて)の顔をほころばせて終始満足げだった。
 ユニフォームから学校の制服に着替えた大樹と、駐車場の出入口に並ぶ自販機のコーナーで合流した。ボストンバックを肩から下げた大樹の隣には、当然のように菜月が付き添っていた。
 駿平がペコリと頭を下げて「お疲れさまです!」と声をかけると、菜月がはにかんだ笑みを浮かべる。制服のブラウスを下から押しあげるふたつの胸のふくらみに自然と視線が吸い寄せられてしまう。目の前にいる菜月は、記憶にある彼女よりも豊満な身体つきをしていた。スカートの下からのぞく、すんなりとした白い脚が妙になまめかしい。
 おれはどんな表情をしていたのだろう。きっと幽霊でも見たような顔つきをしていたのに違いない。おれと目が合った菜月が軽い笑い声をたてる。
「ヤだ、翔馬ったらぁ。なんて顔をしてんのぉ?」
 菜月の声を耳にするのは二年ぶりだった。声質は変わっていない。間延びした語調も「ヤだ」が口癖であるのも、以前のままのようだ。生きている菜月の姿を目にして、不覚にもおれは涙ぐんでいた。唇をかみしめてグッと涙をこらえる。それを別の意味に勘違いした大樹がほがらかな声で笑う。
「翔馬、おれが勝ってそんなに残念なのか?」
 なんの気がねもないセリフ。菜月の墓前でおれと殴りあった大樹とは別人のようだ。いや、実際にそのとおりなんだ、と思いなおす。ここにいる大樹はおれが知っているヤツなんかじゃない。菜月の死を知らない、別世界に住む大樹だ。
 おれが返事をしないでいると、大樹は太い眉をひそめた。
「ん? なんだよ、いまごろになって逃げたりすんなよ?」
「……逃げる?」
「おれと賭けをしたろ。今日の試合、城南が勝ったら昼飯はおまえのおごりだ。城南が負けたらおれがおごる。忘れたんかよ?」
「あ、いや。忘れてねえよ」
 そんな賭けをした憶えはまったくないけど、言い逃れはできそうにもない。大樹と菜月、それに駿平の昼飯はおれが身銭を切ることとなった。もちろん、森は対象外だ。「なんでおれだけ……」とふてくされているが、おれはそこまで寛容じゃない。
 森が先導するかたちで、五人がひとかたまりになって公園のなかを移動する。横断歩道を渡り、公園と道路をはさんだ反対側にあるファミレスへと向かった。菜月はさっきから大樹とばかり話している。「ヤだ!」を連発して大樹の肩を何回もたたく。大樹はそのたびに白い歯をのぞかせてマネキンみたいな笑顔をつくる。そんなふたりの様子を森が肩越しにチラチラとうかがって、声には出さずに口だけ動かして、「リア充爆発しろ」と呪詛(じゅそ)の言葉を吐いた。駿平はまるで教祖を崇める信徒のような眼差しで大樹と菜月を観察していた。純粋な尊敬の念があるだけで、大樹に対して嫉妬のような暗い感情は持っていないようだ。こいつの野球好きにはおよそ限度というものがない。ほとほと困ったものである。
 道路に面したテーブル席を五人で占める。あずき色の制服を着たウェイトレスの女の子が、営業スマイルを惜しみなく振りまきながらメニューを配る。お昼どきの店内はけっこう混んでいる。おれたちの席の後ろでは、若い夫婦に連れられた二歳ぐらいの男の子がフォークをたどたどしくにぎりしめて、小さなお椀に分けられたラーメンをズルズルとすすっていた。
 おれのあずかり知らない賭けによって余計な出費を強いられる結果となってしまったが、持ちあわせの現金を超えるような大盤振る舞いはできない。サイフの中身を見せて、ひとりあたりの上限金額を知らせると、大樹は筋肉で盛りあがった肩をヒョイとすくめた。
「その値段だとハンバーグのランチセットぐらいかな、食べれるのは。いいよ、おれはそれで。菜月はどうする?」
「あたしも同じものにするよぉ。森君は?」
「ビーフのリブロースステーキのランチセット。ドリンクバーつきで」
「あ、ぼくも森先輩と同じものを……」
「駿平、おまえはこれだ。おれと同じ、パスタのナポリタン。いちばん安いヤツ」
「兄さんだけそれにすればいいじゃん。ぼくは……」
「パスタのナポリタンだ。イヤなら水だけにしておけ」
「…………」
「ヤだ! 翔馬、それだと弟さんがかわいそうよぉ。食べ盛りなんでしょ?」