紅装のドリームスイーパー
おれは思わず立ちあがる。大樹がおれに気づく。気さくな笑顔を向けてくる。友人に対する純粋な笑顔。そこにはおれと大樹とのあいだにわだかまるドロドロとした感情はいっさい感じられなかった。ケータイの電話帳に大樹の名前があったことを思いだす。いま、その意味を理解した。
そう、この世界の大樹はおれの友人──幼稚園からいつもいっしょだった幼なじみなのだ。
おれはなにも言えない。呆然と見送っていると、大樹はバッターボックスに入り、足で入念に土をならす。
「立ってないで座れよ、新城」
森の声で現実に立ち返り、おれはノロノロと腰を落とす。全身に冷たい汗をかいていた。
「……エースで四番って糸川のことなのか?」
「ああ。まだ一年生なのにたいしたヤツだよ。超高校級のスラッガーってやつ? そのうちプロ野球の球団からスカウトされるかもな」
森は目尻を緩ませてペットボトルのお茶を口に含む。駿平はすでに観戦モードだ。グラウンドから目をそらさない。四番打者の登場で一気に盛りあがった野球部員たちの応援がうるさい。
「森……」
「なんだよ、さっきから?」
「薬袋花鈴という女の子を知らねえか?」
「はあ?」
森の反応で回答は予想できた。やはり花鈴はこの世界からいなくなっている。誰も彼女のことを憶えていない。当然だろう。最初からいないことになっているんだから。
「薬袋花鈴? 誰だよ、それ? もしかして、おまえの彼女とか?」
「違うって……。いや、いいんだ。なんでもない」
森は口につけたペットボトル越しにおれの顔をのぞきこむ。おれはもうひとり、森に尋ねておくべき名前を思いつき、軽い調子で口にする。
「じゃあ、梁川澪って知ってるか?」
この質問は今度こそ、森の疑惑を決定的にしてしまったらしい。メガネのブリッジ──そういえば銀縁のメガネをかけていたはずなのに、いまの森のメガネは黒縁だ──を右手の中指でグイッと押しあげ、眉間にシワをつくる。
「おまえ、うちのクラスの委員長の名前を忘れちまったのかよ? もしかして健忘症? その若さでヤバいんじゃないの?」
そうか。梁川澪というのはおれのクラスの委員長らしい。どうしておれのケータイの電話帳に彼女の電話番号が登録されているのか、いまひとつ関係がつかめないが、なんとなく状況は呑みこめた。消えた人間がいる一方で、新しく登場した人間がいる、ということらしい。
「あれ、そうだったけか? いやあ、あんまり話したことがねえから、ついつい名前を忘れちゃってさ……」
おれの下手くそな言い訳は途中でしぼんだ。森がますます眉間にシワを寄せておれに顔を近づける。どうやらマズい言葉を口にして馬脚(ばきゃく)を現してしまったようだ。
はっきりとわかるまでなにもしゃべらないほうがいいな、こいつは……。
ストライク、とアンパイアが大声で叫ぶ。相手チームのピッチャーが闘争心むきだしの顔つきで大樹をにらむ。二塁にいるランナーを気にかける素振りはない。セットポジションをとっているときも二塁を振り返らなかった。全力投球の真っ向勝負だ。
「まあ、確かに梁川は無愛想で無口だけどさ、おまえとはよくつるんでるじゃん。新城君、ヒマだったら手を貸してって」
森が裏声を使ってマネをする。たぶん、その梁川澪とかいう女子のマネだろう。
「なんだか妙に仲がいいよな、新城と梁川は。おれへの当てつけか、それって? おまえ、自分はリア充だとかひそかに思ってない?」
「そいつは違う……」
金属バットが鳴る大きな音。おれの苦しい釈明は、野球部員と駿平の、耳をつんざく大歓声で押しつぶされた。グラウンドに視線を戻すと、白球がきれいな放物線を描いて空高く舞いあがっていた。育学館のレフトが途中まで追いかけて足を止め、あきらめ顔でボールを見送る。ボールが無人のレフトスタンドに飛びこむ。
ツーランホームラン。
一塁を回った大樹がボールの行方を確かめて満足げに微笑む。マウンドの上のピッチャーはがっくりと肩を落とし、両膝に手をついてうつむいた。ホームベースに還ってきた大樹をチームメイトが笑顔で出迎える。おれの座っている芝生席だと死角になっている一塁側のベンチから、小柄な人影が歩みでてきた。
女の子。学校の制服を着ていた。肩で切りそろえた栗色の髪が揺れる。口に手をあてて大樹に祝福のメッセージを伝えている。
彼女の横顔がチラリとのぞく。頬には笑窪。それだけで充分だった。
おれは顔面から血の気が引くのを感じた。
あれから二年が経ち、彼女は記憶にある姿よりも一層、女性らしい容姿を整えていた。
彼女の名前は、早見菜月。
二年前に交通事故で死んだはずの少女だった。
森がため息をつく。唇をアヒルのようにとがらせ、ペッドボトルの首を指でつまんでブラブラさせる。
「ったく、お似合いだよな、糸川と早見は……」
おれが目顔でいまのセリフの意味を尋ねると、森は口許に苦笑いを浮かべる。
「中学のときから相思相愛だったってハナシじゃん? おれよりもおまえのほうが詳しいだろ」
相思相愛か。菜月が大樹をどう思っていたのかは知らないが、大樹が菜月を好きだったのは本人の口から聞いている。ふたりの関係が幼なじみから恋人同士へ発展していたとしても不思議じゃない。菜月が野球部のマネージャーをやっているのも、そのあたりが理由なんだろう。
菜月がベンチに引っこみ、姿が見えなくなる。ハイタッチで喜びを分かちあった野球部員たちがようやく腰を下ろす。いま気づいたが、野球部員の数がずいぶんと多い。こんなにいなかったはずだ。強豪校だからだろう。「甲子園」という単語が彼らの交わす会話の端々から聞こえてくる。今年の地区予選にかける彼らの意気ごみの大きさがうかがえた。
森はレジ袋のなかに仕込んでいたポテトチップスをついばんでいた。バッターボックスに入る五番打者に「かっとばせ」と、おざなりの声援を送る。そういえば、野球部とは無関係のこいつがどうしてこんなところにいるんだ?
その疑問を問いただすと、森は半眼になっておれを見返した。歯にくっついた青のりが実にマヌケだ。
「まあ、義理ってヤツかな。糸川とはラノベを貸しあってる仲だし」
こいつ、おれが知らないあいだに大樹と友達になっていやがる。
まだまだおれの知らない裏設定がたくさんありそうだ。こいつは調子を合わせるのが大変だ。この世界の全貌を把握するまでにおれは何回、家族や友人から白けた眼差しを向けられるのだろう……。
五番打者が平凡な内野フライを打ちあげる。セカンドが捕球してスリーアウト、チェンジ。スコアボードの一回表には「2」という数字。
守備が入れかわる。大樹がピッチャーマウンドへ歩いていく。野球部員がメガボンで声を限りに叫ぶ。それに手を振って応える大樹。
キャッチャーがマウンドに歩み寄り、大樹に声をかける。大樹は笑みをこぼす。余裕の態度だ。投球練習を始めた。相手チームのピッチャーの球速も速かったが、大樹のボールの球威はそれ以上だ。キャッチャーミットをたたくパーンという乾いた音が空気を震わせた。
作品名:紅装のドリームスイーパー 作家名:那由他