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紅装のドリームスイーパー

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「いえ、勧誘なんかじゃありません。ぼくの友だちがこの部屋に住んでたはずなんです」
「わたしはこのマンションが建ったときからここに住んでるんです! なんかのまちがいじゃないの?」
 ここまで自信たっぷりに断言されたら、もはや返す言葉はない。おれは「どうもすみませんでした」と頭を下げてきびすを返し、脱兎のごとくその場から逃げだした。「なんなのよ、もう!」と悪態をつく女性の声が背中から追いかけてくる。
 肝の冷える思いをしたが、とにかく、これではっきりした。
 この世界に薬袋花鈴は存在しない、ということが。

 戦国時代の城跡に隣接した市民公園のなかに市営グラウンドはある。
 普段はこんな場所に用事などない。おれに体育会系の友達はいないし、年に一回、公園で催される市民祭りにも足を運んだことはなかった。
 不慣れなために自転車を停める場所がわからず、思わぬ時間をくってしまい、駐輪場から市営グラウンドへ向かったときにはとっくに十時を回っていた。
 公園のなかの雑木林を抜ける石敷きの遊歩道を急いでいると、そよ風にざわめく梢(こずえ)の向こうからくぐもった喚声が聞こえてきた。金属バットがボールを打つ小気味のいい音が、初夏の高い空に吸いこまれていく。まだ営業していないプールの横を回りこみ、がらんとした駐車場を斜めに突っ切る。湿った土のにおいが空気に濃い。駐車場の反対側が目指す市営グラウンドだ。
 市営グラウンドは別名、硬式野球場とも呼ばれている。両翼まで百メートル近くあり、硬式野球をするには充分な広さを備えているが、プロ野球の球場みたいなきちんとした観客席はつくられていない。椅子の代わりに傾斜をつけた芝生席が、一塁側と三塁側両方のベンチの後方に四角く広がっている。中学時代に大樹から聞いたハナシだと、土地が低い場所にあるため、雨が降ると水がたまりやすいそうだ。昨日の大雨でグラウンドの状態は悪いんじゃないかと思ったが、いざ目的地にたどりついてみると、野球ができないほどひどい状態ではないようだ。ところどころに砂をまいているが、普通に野球をしている。
 城南高校と育学館高校との練習試合はもう始まっていた。目つきのやたらと鋭いピッチャーが鷹揚(おうよう)に振りかぶり、ボールを投げる。速い球。バッターはタイミングが合っていない。振り遅れた。かろうじてバットのさきっぽにボールを当てる。ボールは三塁側のファウルグラウンドをコロコロと転がっていく。
 三塁側のベンチ──そちらは育学館高校のチームが座っていた──のなかから監督の指示する野太い声が飛ぶ。一塁側と三塁側の芝生席に陣取った少数の観客の大半は両校の野球部員で、メガホンを手にさかんに声援を送っている。城南高校のチームがいる一塁側のベンチは、おれの立っている位置からだと死角になっていて様子がうかがえない。
 ピッチャーのユニフォームの胸には「育学館」の墨痕淋漓(ぼっこんりんり)とした黒い文字が並んでいた。とすると、いま攻撃しているのは城南のようだ。三塁側のベンチの横に置いてある手書きのスコアボードを見る。一回の表、ワンアウト。試合はまだ始まったばかりだ。
 駿平の姿を探す。ここに来ているはずだ。すぐに見つけた。
 一塁側の芝生席。そろいのユニフォームを着た城南高校野球部の部員たちの後ろに銀色のレジャーシートを敷き、膝を抱えて座りこんでいる。まるでプロ野球の試合でも観戦しているかのように、一瞬たりとも見逃すまいと熱心な視線をグラウンドに注いでいる。おれにまったく気づいていない。芝生席に近寄ると、駿平の隣に意外な人物の姿を発見した。
 森啓太だ。手に持ったコンビニのレジ袋からペットボトルのお茶を取りだし、駿平に手渡している。おれと同じく部活とは無縁の森に、日曜日に野球部の練習試合をわざわざ観戦する理由などないはずだ。どうしてこんなところにいるんだろう?
 声をかけると森が肩越しに振り向き、相好を崩して手をヒラヒラと振る。森の左隣に腰を下ろした。駿平は軽くこぶしをにぎって一心不乱にバッターを凝視している。「おい」と駿平の肩をたたいたら、そっけなく手を振り払われた。
「森、おまえはなんでこんなところにいるんだ?」
「あん? 決まってるじゃないか。おれは……」
 ボールがミットに吸いこまれる重い音。きびきびとしたジェスチャーでバッターに三振を宣告するアンパイア。これでツーアウト。おれのすぐまえに固まった野球部員たちから不規則な嘆声が洩れる。駿平の口から洩れでた嘆息は野球部員の誰よりも大きかった。
「おまえ、うちの学校を応援してるのか?」
 と駿平をからかうと、こわい目つきでにらまれた。
「ぼくは城南高校に入るんだ。絶対にレギュラーになって甲子園に行ってみせる!」
「甲子園って……うちの学校は毎年初戦か二回戦で敗退してるぞ。二十年ぐらいまえに四回戦まで進んだらしいけどな」
 森が黒縁メガネの奥の目を細めておれの顔を見つめる。駿平のおれを見る眼差しには軽蔑の色がはっきりと表れていた。
「新城、うちの学校は県内の公立でも指折りの強豪だぜ。まだ甲子園に出場したことはないけど、過去に三回、地区予選で準優勝してる。知らんのか?」
「へ?」
 おれは目をパチクリさせる。森も駿平も真剣な表情だ。冗談なんかじゃないらしい。
 どうやら現実の改変はさまざまな分野に波及しているようだ。いつの間にか、我が校は野球の強豪校に格上げされている。
「二年前は惜しかったよ。あと一勝で甲子園へ行けたのに……。でも、今年は期待できるぞ。あいつがいるからな」
 と、森。
「あいつって?」
「もちろん、エースで四番の……」
 そのとき、金属バットがボールを打ち返す甲高い音が響き、野球部員たちがいっせいに立ちあがってドッと歓声をあげた。駿平が小さくガッツポーズをする。グラウンドに目を向けると、ヒットを放ったバッターがちょうど一塁を回り、二塁へと走っていくところだった。ボールはライトのファウルラインの内側を転がっている。相手チームのライトが必死になってボールを追っていた。ようやくボールに追いつき、二塁へ投げる。打ったバッターはボールが届くまえに悠々と二塁に到達していた。
 二塁打。一塁側の芝生席がにわかに騒がしくなる。
 バッターボックスに次のバッターが向かっていく。打順からすると、彼が城南高校のエースで四番打者なのだろう。
 あれ? ちょっと待てよ。
 確か、森の情報によると、彼は自宅の階段から転落して足の指を骨折したはずだが……。勢いよく素振りをしているその姿からは、とてもケガをしているようには見えない。現実が改変されたせいで、ケガが治った──というより、最初からケガをしていなかったのかもしれない。
 野球部員の声援を背中に浴びて、四番打者が振り返る。白い歯をのぞかせて右手を軽く挙げた。ヘルメットに半分隠れていたが、彼の顔がはっきりと見えた。おれは目をむく。
 糸川大樹だ。
 県外の私立高校へ進学したはずの大樹が城南高校野球部のユニフォームを着ていた。