紅装のドリームスイーパー
「城南高校野球部のマネージャーをやってるひとに決まってるじゃん。早見菜月さんだよ」
「……な」
絶句した。
駿平が目を細めておれを見つめている。その様子からすると、冗談を言っているわけじゃなさそうだ。だいたい、駿平にはこんな冗談を口にする理由がない。
ケータイの電話帳に菜月の名前を見つけたとき、もしかしたら、と予想はしていた。
生きているんだ。
二年前に死んだはずの、おれの幼なじみ──早見菜月が。この現実世界では。
「……おまえ、最近早見に会ったのか?」
「今週の水曜日に兄さんの学校で会ったばかりじゃん。兄さんだってその場にいたんだよ? ホントに憶えてねえの?」
憶えていない。というより、駿平が目撃したそいつはおれじゃない。おれと同じ顔、同じ身体を持った別人だ。いや、それをいうなら、いまおれの目の前にいる家族も──おれにとっては別世界の人間なんだ。
全身の肌が粟立った。ここから飛びだしていきたい衝動が胸の奥底から突きあげてきた。こぶしをにぎり、奥歯を喰いしばる。おれの手のなかでトーストがあえなくつぶれる。
駿平が心配げな表情になって、おれの顔を正面からのぞきこんでくる。
「なんだか顔色が悪いよ? 大丈夫?」
これが夢だったら、目覚めることで逃れることもできるだろう。が、この世界は現実だ。夢なんかじゃない。
現実と呼ばれる、終わりのない悪夢のなかなのだ。
心のうちで思いつくかぎりの悪態をつきつつ、無残につぶれてしまったトーストの残骸を口のなかに押しこむ。駿平は目を丸くしている。なおもなにか言いさしたが、怒気をこめたおれの視線を浴び、首をすくめて黙りこむ。
「……試合は何時からなんだ?」
「えっと……十時からだよ。市営グラウンドで。兄さんも行くの?」
「ああ」
おれはぶっきらぼうな口調で答える。皿に盛られた目玉焼きをフォークでつつきながら、これからどうすればいいのか、あれこれと考えあぐねた。
なにが原因なのかはよくわからないが、菜月が生きているところからすると、どうやら現実が改変されているようだ。もしや、と思って、駿平や両親に花鈴のことを尋ねてみたが、三人ともそんな名前は聞いたことがないと首を横に振る。駿平が「兄さんの彼女?」と冷やかしてくる。小さい子供のときは駿平ともよく遊んだのに、花鈴のことを本当に知らないみたいだ。まだわからないが、この世界に花鈴は存在していないらしい。ケータイの電話帳から花鈴の名前が消えていたのもそのせいだろう。それを確かめるには、花鈴の家に行ってみるしかない。
なにもかもが推測にすぎないが、ただひとつ、確実だと思われることがあった。夢魔──あるいは夢魔となった花鈴が、今回の件に関わっていそうだ、ということである。今朝になって異変が生じたことを鑑みると、昨晩の夢と無関係だとはとても思えない。なにか因果関係があるはずだ。ルウに訊けば教えてくれるかもしれない。
朝食を食べ終えて自分の部屋に戻る。母親と駿平のうろんな視線が追いかけてきたが無視する。どうせ説明したところで信じてもらえるはずがない。おれ自身、いまの状況が信じられずにいるんだから、なおさらだ。
現実が改変されているのだとすれば、それはおれのケータイにも影響を及ぼす。さっきの電話帳で確認済みの現象だ。ということは電話帳を詳しく調べれば、菜月と花鈴のほかにもなにか異変が生じているのか、手がかりがつかめるかもしれない。
ベッドに腰かけ、ケータイの電話帳を開く。「あ」行から順番に、登録されている電話番号をチェックしていく。さっそく、おかしな点が見つかった。「糸川大樹」の名前があった。ヤツとは電話番号を交換した憶えがない。電話帳に名前がある、ということは、この世界の大樹とおれはいまでも友達づきあいを続けているのだろう。菜月が生き返っているのだとしたらヤツと仲たがいする原因はないのだから、それも納得できるハナシだ。
電話帳のチェックを続ける。「や」行に見慣れない名前があった。「梁川澪」とある。「梁川澪」の読み方がわからない。フリガナがふってあった。「ヤナガワミオ」と読むらしい。名前からすると女性。でも、記憶にない。クラスにはいなかったはずだ。誰だろう?
電話をかけてみようかとも思ったが、相手はおれのことを知っているはずだ。おれが彼女のことを知らないとバレたら、不審に思われるだろう。だいたい、彼女がおれと同じ高校生だとは限らない。もしかしたら、大人の女性の可能性だってある。そんな女性と知りあいになる機会がおれにあるとも思えなかったが……いや、この世界のおれにはチャンスがあったのかも。
クソ、頭がおかしくなりそうだ!
ケータイを机の上に放りだす。
ため息。とにかく、行動あるのみ。まずは花鈴だ。
時計を見るともうすぐ九時。花鈴の家に寄ってから市営グラウンドに行けば、ちょうど十時ぐらいになるだろう。
サイフだけを持って家を飛びだす。「お昼はどうすんの?」という母親の声に、「適当にどっかで食べるから!」と答えて自転車にまたがり、ペダルをこぐ。
駅前の通りへと向かう。
今日は朝からよく晴れている。熱気をはらんだ風が不意に吹き寄せてきて、上気した頬をざらついた舌先でなぶった。アスファルトの路面にまといつく逃げ水が、路肩に駐車したクルマを呑みこんでいく。シャボン玉を飛ばして声高にはしゃぐ子供たち、口笛を吹きながらクルマを洗う中年の男性、公園の木陰で居眠りしている老人。電車の走るリズミカルな音が聞こえてくる。
この世界は、昨日までとなにも変わらないように思えた。
花鈴が住むマンションは、昨日とまったく変わらない姿でそこにたたずんでいた。
レンガを模した赤茶色の外壁が、強い陽射しを浴びて陽炎(かげろう)をくゆらせている。エントランスに足を踏み入れると、外よりもひんやりとした空気が肌に心地よかった。
集合ポストに近づく。ひとつ深呼吸。心の準備を整え、目を凝らして三○二号室の名札を確認する。
予想はしていたが……それでもうめき声が喉の奥から洩れた。
名札にはゴシック体の文字で「石川」とあった。「薬袋」じゃない。念のため、ほかの部屋の名札も確かめてみたが、このマンションに「薬袋」という難読姓はなかった。
迷ったけれど、ここまで来たら最後まで確かめずにはいられない。階段で三階まで昇り、廊下をたどる。三○二号室。昨日訪れた部屋のまえに立つ。やはり表札には「石川」とある。
意を決してドアチャイムを鳴らす。ガチャガチャとドアチェーンを外す音がして、ドアが開く。メガネをかけた初老の女性が戸口に立っていた。もちろん、花鈴の母親じゃない。女性がいぶかしげにおれの頭のてっぺんから爪先までをジロジロとながめる。回れ右をしてその場から逃げだしたくなったが、ありったけの勇気を動員してどうにかこらえた。
「……どなた?」
「あの……この部屋に薬袋さんというかたが住んでいませんでしたか?」
「はあ?」
女性の声が裏返る。ヘンな勧誘と勘違いされたのだろう、女性の表情がとたんに険しくなった。
「なんだか知りませんけど、勧誘でしたらお断りですからね!」
作品名:紅装のドリームスイーパー 作家名:那由他