紅装のドリームスイーパー
「それがよけいなお世話だって言ってるんです! こいつが……」
大樹が傘を持っていない左手の人差し指を花鈴に突きつける。花鈴はヒッと息を呑んだ。
「こいつが菜月を殺したんだ! あのとき寄り道さえしてなければ……」
そのさきを続けさせるつもりはなかった。おれは傘を放りだす。数歩の距離をまたぎ越し、大樹の右頬を思い切り、はたいた。大樹のがっしりとした上半身がふらつく。
すぐに反撃がきた。大樹も傘を放りだし、右のこぶしを繰りだす。
よけたつもりだったが、おれの左の脇腹に大樹のこぶしが喰いこんだ。息がつまる。一瞬、視野が赤く染まった。
身体が熱くなる。大樹のこぶしにえぐられた脇腹を起点に全身の細胞のひとつひとつへ、沸騰した血液が送りこまれたかのようだった。
おれが反射的に両方のこぶしを固めると、花鈴が金切り声で叫んだ。
「やめて! もうやめて!」
その声でおれも大樹も動きを止める。狂ったような豪雨がおれたちをなぶった。目だけを動かして花鈴を見やる。
花鈴がギュッと目をつぶる。疲れ果てたような表情。つかんでいた傘を落とした。大粒の雨が容赦なく、花鈴の顔を打ち据える。亜麻色の髪が水を吸って垂れさがり、前髪から鼻へと水滴が伝い落ちていく。
浩平は大きく目を見開き、凝然とおれたち三人を見守っていた。言葉もない。途切れることのない雨音だけがおれたちを何重にも包みこんでいた。
「……もういいよ。わたし、もう耐えられない」
花鈴がきびすを返す。傘を地面に落としたまま、霊園の正門へ向かって小走りに立ち去っていく。
おれは花鈴の後ろ姿を呆然と見送った。動けなかった。おれだけじゃなく、大樹も浩平も身動きしない。降りそそぐ雨のなかで彫像のように立ちつくし、花鈴が去っていた方角をぼんやりとながめていた。頬を流れ落ちる雨滴は、まるで肌を焦がす強い酸のように熱く感じられた。
目に見えない呪縛を最初に破ったのは大樹だった。おもむろに傘を拾い、底にたまった水を捨てて右手に持つ。おれも傘を拾って頭上に差しかけた。大樹が、おれの手形がくっきりと残る右頬をさする。肉食獣めいた獰猛な笑みを浮かべた。
「新城、おまえもおれと同じことを思ってるはずだろ? 菜月を殺したのはあいつだ」
「おまえ、まだそんなことを……」
「やめだ、やめ。おまえとこんなところで殴りあうつもりはねえよ。つまんないことで監督や先輩に迷惑をかけたくねえからな」
「つまんないことなのか、これが?」
大樹は黙りこんだ。唇をかみしめ、憎々しげな形相でおれをにらむ。浩平はオロオロとおれたちふたりを交互に見比べていた。口を開こうとした浩平をとっさに手で制し、大樹は押し殺した声で言った。
「おれは菜月が好きだった。まだガキだったけど、小学生のときからずっと好きだった。なのに、なんで菜月が死ななくちゃならねえんだよ? 答えろよ、新城。なんでおれたちはここにいるのに、菜月はいねえんだ?」
「図体がでかいだけでいまでもガキだな、おまえは」
おれの挑発を、大樹はフッと短く笑って受け流す。冷たい目つきで浩平を見やる。浩平はたじろぐ。軽蔑を隠そうともしない語調で、大樹は吐き捨てた。
「あとでもう一度、お墓参りに来ますよ。今日はこれで失礼します」
軽く頭を下げ、墓石の列の奥へと歩み去っていく。大樹の背中が桜の木立の向こう側に消えるまで見送ってから、おれはためていた息を一気に吐いた。
「……その、悪かったね。よけいなことをして」
浩平は苦笑とも憫笑(びんしょう)ともつかない笑みを口許に浮かべる。バツが悪いのだろう、おれと目を合わせようとしない。このひとなりに気を遣ったつもりなのだろうが、結果はまったくの逆効果だった。大樹とは仲直りどころか、ますます関係がこじれてしまった。小学生のときは何度もケンカしたが、本気で殴りあいのケンカをしたのは初めてだ。殴られた脇腹がまだズキズキと痛む。
ため息をつく。花鈴のことが気になったが、ここまで来たのだから、菜月のお墓参りをきちんと済ませてから帰りたいと思った。墓前に腰を下ろす。真っ白なユリの花が供えられていることに、いまさらながら気づいた。大樹が供えたものかもしれない。おれたちは花を持ってきていなかった。いま思うと、浩平は大樹がここにいるのを知っていたから、「花はいらない」と断ったのだろう。
お墓に向かって、瞑目、合掌。傘をたたく雨音が、ささやかな儀式の伴奏となった。
墓石に寄りそうかたちで立てられた墓碑銘に目をやる。真新しい白い字で菜月の戒名が刻まれていた。戒名の下に、命日となった二年前の日付が続く。
そう──菜月はもういない。この世界のどこにも。
菜月が死んだときも大樹は花鈴を激しくなじった。菜月が死んだのはおまえのせいだ、と。それが根拠のない八つ当たりであることを、大樹自身もわかっていたはずだ。ただ、そうでもしないと、鬱屈した感情のはけ口がなかったのだろう。大樹は怒りを花鈴にぶつければ気が済むのかもしれない。だが、仮借のない怒りを一方的に浴びせられる花鈴はどうすればいいんだ?
立ちあがる。小さくうなずいて、菜月にしばしの別れを告げる。
花鈴の傘は浩平が拾いあげていた。それを受け取り、「ここで失礼します」と言い置いてさっさと歩きだす。浩平が不満げになにかぼやいたが無視する。彼とは積極的にかかわりたくなかった。
霊園の正門を出るころには走りだしていた。花鈴はもう電車に乗っているかもしれない。追いつけない可能性が高かったが、それでも走るのをやめなかった。脱色した風景がおれの左右を雨音といっしょに流れていく。雨で濡れた服が肌に貼りつき、動きにくかった。湿った肺が酸素を求めてせわしなく伸縮を繰り返す。息が切れた。脇腹の痛みがしだいに遠い感覚になっていく。
花鈴は、行きに見かけた自販機の並ぶ小屋のなかで、所在なげに立ちすくんでいた。空いっぱいに立ちこめる濃灰色の雲の底をうつろな目で見上げ、半分開いた口がブツブツとひとり言をつむいでいる。ベンチに腰かけていた禿頭の老人の姿はすでになかった。
おれが声をかけても、花鈴はほとんど反応を示さなかった。目だけが動いて、無感動な視線をおれに注ぐ。花鈴は全身、ずぶ濡れだった。濡れた髪が肩にまとわりつき、毛先からはしずくがしたたっている。
傘を差しだすと、花鈴は無言で受け取った。なんでもないその行為が、彼女の胸のうちにわだかまる感情を一気に膨張させたのかもしれない。顔を濡らす雨滴とは別の、透明な粒が目尻からあふれ、青ざめた頬をすべり落ちていった。
「花鈴、大樹の言うことなんて気にしちゃダメだ。あいつは八つ当たりしてるだけなんだから」
「わたし、知ってたの」
「え?」
「糸川君がいるってこと。夢で見たから。夢のとおりだったわ」
「夢? それって、さっき言ってたヘンな夢のこと? どんな夢なんだよ?」
「もういいから。わたしのことは放っておいて」
「だけど、花鈴……」
「いいから放っておいて。わたし、大丈夫だから」
「……おれじゃダメなのか?」
できれば口にしたくない問いかけだった。口にするだけで、自分の未熟さ、ふがいなさを認めてしまうことになりそうで、胸がムカついた。
作品名:紅装のドリームスイーパー 作家名:那由他