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ヒトサシユビの森 2.コユビ

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「この白い部分が出血箇所です。出血量が比較的多かったので、頭蓋骨に穴をあけて管を通して血種を吸い取る定位脳手術を施しました。今後の治療法は再検査してから判断します。明日の午前中には麻酔から覚めると思いますが、もしかしたら認知症の症状が顕れるかもしれません。とにかく発見が早くてよかった。あと1時間遅れていたら、命はなかったでしょう」
医師の説明を反芻しながら、かざねは廊下に置かれた長椅子に座り、気もそぞろだった。
手術後、雪乃はずっと集中治療室のベッドに死んだように目を閉じ横たわっていた。
その雪乃に異変があったのか医師と看護師が集中治療室に入ってから、かれこれは半時間が経過した。
病状の難しい説明はよくわからない。
医師の言葉を信じるしかなかった。やがて看護師が集中治療室から出てきて、かざねに言った。
「お母さま、意識が戻られました。容態は安定しています。お話しできますよ」
かざねは安堵の溜息をついた。看護師に
「ありがとうございます」と頭を下げると、傍らで毛布にくるまって眠っていたいぶきを揺り起こして、集中治療室に足を踏みいれた。
ベッドの上で目を見開いた雪乃が医師と何か言葉を交わしていた。
「母さん」
かざねの呼びかけに雪乃は応じない。医師に促されて雪乃はかざねのほうを見た。
「かざね、か?」
「母さん」
かざねは零れ落ちそうのなる涙を指で拭った。
「わざわざ来んでもよかったのに、かざね」
「心配したんだからね。でもよかった」
かざねは集中治療室の外で入室をためらっているいぶきを手招きで呼び寄せた。
いぶきは恥ずかしそうにかざねにまとわりついた。
「大きくなったでしょ、母さん」
「そうだね、大きくなったね、さーちゃん」
「母さん、この子はいぶき。さちやじゃないよ」
「さーちゃん、こっちへおいで」
かざねの言葉が雪乃に届いていない。
そればかりか雪乃はいぶきのほうさえ見ていなかった。
雪乃の視線はかざねの背後の白い壁に向けられていた。
「さーちゃん、ほら、こっちへおいで」
かざねは小さなため息をついた。
「母さんったら・・・」

「疲れたから」と言って雪乃はまた横になって目を閉じた。
それからまた長い眠りに入った。脈拍や体温を示すデジタル機器の数値は安定していたので、容体に変化はないが、その日の夜になっても翌朝になっても雪乃は目覚めなかった。
かざねは雪乃が眠りから覚めたときに傍にいられるようにと、ずっと病室に詰めていた。
集中治療室から一般病棟の病室に移ったあとも、雪乃は目覚めない。このまま目が覚めない状態が続くのではないかという先々の不安とともに、もうひとつかざねを悩ませていたものがあった。いぶきだ。
いぶきは初めは病室でおとなしく祖母の回復を待っていた。
しかしやがて退屈したのか、かざねの気づかない間にふらっと病室を出ていくことがあった。
初めのうちは廊下をうろつくいぶきを捕まえては病室に引き戻していたが、看護師らと顔なじみになるころには、多少の徘徊には目をつむった。
いぶきはひとり廊下の長椅子に腰かけて、薄笑いを浮かべながら誰かが通りかかるのを待っていた。
ひとりの看護師がバインダーの束を抱えていぶきの前を通りかかった。
早歩きで通り過ぎようとしたとき、看護師は何かにつまづいたかのようにつんのめり、抱えていたバインダーの束を床に撒き散らした。
慌ててバインダー拾い集めつつ、看護師はつまづいた床面を振り返った。
リノリュームの床面はキズひとつなく光っていて、段差やくぼみなどつまづくような原因は見えなかった。長椅子に座っているいぶきは声をあげて笑った。いぶきの足は床から少し浮き加減で、足を伸ばしたところで看護師がつまづいた箇所には遠く届かない。看護師はバツが悪そうな苦笑いを浮かべて先を急いだ。
つづいて白衣を着た巨漢の医師が廊下をふんぞり返るように歩いてきた。そしていぶきの横を通りすぎたあたりで、足をとられた。
前のめりになってぐるぐると両手をばたつかせた。
うしろに跳ねあげた足を大股で前に踏み出して、まるで関取が土俵入りをするような恰好になって、ようやく転倒を免れた。
いぶきは目を丸くして微笑んだ。
巨漢の医師はつまづいた床面に箇所に目をやったが、原因になるようなものは見当たらなかった。
ただ横で小さな男の子が笑いながら拍手している様を、奇異に感じた。
もうひとり同じようなことがあった後、いぶきは廊下の真ん中に背中をつけて寝転んだ。目を左右に動かし息をひそめながらも、思いだし笑いをこらえ切れない様子だ。
見舞い客らしい初老の男性が近づいてきた。いぶきは、右手を伸ばして天井を指さすと、ぎゅっと目を閉じた。
「何やってるの、そんなとこで?!」
女性の声が降ってきた。かざねだった。いぶきは目を開いて口をへの字に曲げた。
「立ちなさい、いぶき。邪魔でしょ!」
かざねはいぶきの右手を引っ張って長椅子に座らせた。そして当惑している初老の男性に頭を下げて詫びた。
初老の男性はにこやかな笑顔を浮かべ通りすぎた。かざねの小言を聞いている間、いぶきは首を傾げて天井を眺めた。