貧者のシナリオ
彼女は黙って聞いていた。そのことについて、何も言わなかった。おそらくは、ガイアという人物に、理解が及ばないのだろうな、と僕は思った。彼のような人間に、出会ったことはきっとないだろうし、彼はスケールが大きく、ミステリアスな男だった。
夜は深みを増して、流れていった。僕は寡黙になり、彼女は沈黙していた。あるいは、自分の置かれている境遇を点検し、見直しているのかもしれなかった。
彼女はようやく口を開いた。時計を見ると、十時半だった。
「恋愛は終わりがやってくる、必ずね。それに対して、世界中の人々の貧困を救って回るなんて、終わりのないものよ。ガイアって人、ちょっとどうかしているんじゃないかな・・・・・・。失礼かもしれないけど、夢物語だと思うわ」
「夢を抱くのは悪くない」
「共同の夢、個人的な夢」
僕は頷いた。
「いつから夢を抱くことがなくなったのだろう、私は。いつの間にか、浮力を失ってしまった。夢を抱くことがなくなって、現実に押しつぶされるようになっていた」
彼女は酔っているようだった、酷く落ち込んでいるようにも見えた。
「小さい頃は、小説家になることが夢だった。ハーレクインの恋愛小説が好きで、いろいろ買って読んでいたわ」
「今は読んでいないの?」
「卒業したの、あの小説を読んでいると、少し惨めな気分になるから」
「ガイアは小説も書くよ、なかなか面白くてね。彼には、いろいろな才能がある。なんと言っても、まず人としての魅力が高い」
「素晴らしい人ね、彼の作品を読んでみたいわ」
「あるいは、彼なら本当に世界を変えてしまうのかもしれない」
彼女はそのことについて考えているようだった。
「そろそろ、帰ろう・・・・・・。もう十一時を回っている」
「分かったわ、でも酔っているから、少しホテルで休憩させて」
「ホテル?」
「そう」
僕たちは駅前のシティーホテルへ入って、夜を過ごした。彼女は本当に酔っていたみたいで、ホテルへ入ると、倒れるようにして眠った。僕は途中で帰るわけにもいかず、ぼんやりとした時間を過ごした。
彼女も恵と同じく、寂しいのだ、と僕は思った。寂しいから、いろいろな思いが頭のなかに浮かび上がってくる。
クリスマスの夜に恵と会った。彼女は紺色のコートを着て、初めて会ったときと同じ赤いマフラーを身につけていた。彼女とはしばらく会っていなかった。僕の仕事は忙しかったし、彼女が働いている職場も忙しかった。
我々は多忙だった。
その日は、渋谷で映画を観た。ロックバンドの成功物語の映画で、イギリスのロックバンドをモチーフにしたものらしかった。映画はつまらなくもなく、面白くもなかった。モチーフはおそらく、セックスピストルズだろうな、と僕は思った。アナーキーなバンドの性格を良く役者が演じていた。
恵はイギリスのロックバンドが好きだった。レディオヘッドやミューズ、オアシス、ケミカルブラザーズといったグループ。彼らのライブにも通っていたし、夏にはフジロックへ行くことだってあった。
僕はたいして興味がなかった。三十歳を超えてしまうと、音楽にはさほど関心を示さなくなった、何故だか分からない。あるいは、それが年を取ったということかもしれない。
僕の部屋でクリスマスを祝った。彼女はキッチンに立って料理を作った。チキンの料理とサラダ、コーンスープ、フランスパン。彼女が作る料理はいつも美味しかったし、僕は満足していた。
食事が終わり、ティータイムに入った。僕たちは温かいコーヒーを飲み、団らんを過ごしていた。彼女の話題は、多岐に上った。学生時代の恋の話から、鬱病の話、知らない男との出会い、そして『貧者のシナリオ』のこと。
「ガイアとは、最近会っていないな。ユーザーレポートのボランティアは続けているけど、ふっつりと彼から連絡が途絶えてしまった」
「彼なら今、会社にはいないわ。過労で、自宅療養している。人を遠ざけている、私は『クイーン』とお見舞いに行ったのだけど、会った彼には生気がなかった。濁った目をしていた」
「会社に来なくなってどのぐらいになるの?」
「ちょうど二週間ね」彼女は淡々とした口調で言った。「あなたも会いに行ってあげて欲しいの、彼は走り過ぎていたのよ。気がつくと、精神とからだが疲労しきっていた。鬱病とかそういった類いではないと思うけど、私は心配している」
「会社は順調かい?」
「それがそうでもないのよ。ユーザー数は伸び悩んでいる、思った以上の収益を上げることは難しい。それに、『脚本家』はガイアと喧嘩をしてしまってね、詳細は分からないけど。彼は、『貧者のシナリオ』から手を引いた。彼は非常に有能だった」
「亨さんは知っているかもしれないけど・・・・・・、新設の株式会社が倒産する確率は八割だそうよ。それぐらい、経営というのは難しいの。あなたは今の仕事を辞めなくて正解だと思うわ。私も後悔している。人は理想だけで、生きていくことはできないのよ。ガイアは素晴らしく能力が高かった。資産家だし、インテリジェントだと私は思う。だけど、今、彼は、華麗に敗れ去ろうとしている。資本主義の狭間、暗闇の部分に落下している」
僕はガイアのことが心配になってきた。彼女は不安そうな顔をしている。
「一度、会ってみるよ」僕はできる限り明るい声で言った。
「お願いね」と彼女は言った。
大晦日に僕はガイアと会うことになった。彼の家へ行こうとしたら、彼は六本木まで出てくると言った。年末の六本木は華やかで、騒々しかった。
彼と出会って、驚いたのが、ずいぶんと痩せていたことだった。おそらくは十キロ以上、痩せたのではないか、というぐらいだった。
「ろくに食事を取っていない、不眠だったり過眠だったりする。精神の具合が悪いのか、あるいはそうではないのか」
「医者には通っているのかい?」
彼は首を振った。医者というものをたいして信用していないし、昔から嫌いでね、と彼は言った。
彼は会社の話をした。『貧者のシナリオ』のユーザー数は約百万人、少人数の会社としては上出来の数字だが、彼はもっと高みを目指していた。彼は、『脚本家』が辞めてしまったことを非常に残念がっていた。これからは、僕がシナリオを書くと言った。彼は小説を書いているし、その出来は良かった。
時刻は昼の二時だった。彼は体調が悪そうだったけども、顔は晴れやかで非常に落ち着いていた。
付いてきて欲しいところがある、と彼は言った。彼はにっこりと笑った。
「いったいどこへ行こうとしているんだ?」
「孤児院だよ、千葉県の小さな町にあってね、僕は毎年大晦日に、そこを訪れている。子供たちは皆、身寄りがない。彼らには、悲壮感が存在しない。少しはあるのかもしれないが、見た目には分からない。無邪気なんだよ、とても。君は子供のことが好きかな?」
「どちらかというと、好きだね。子供と触れ合っていると、心が温かくなる」
「そうか」
彼は車を運転して、首都高速に乗り、千葉へ行った。僕は助手席に乗っていた。彼の車はアルファロメオだった。
作品名:貧者のシナリオ 作家名:Murakami.Lia